泣くのが下手

泣くのが下手だと思った。

今日は袖がびしょびしょで色が変わるほど泣いてしまった。
30分近く声をあげて泣いていた。
とめどなく流れる涙。小康状態は一切やってこなかった。

しかし、泣くのが下手だった。
「声を上げて」と先述したが実際は声を殺しているのに漏れてしまう音があまりにも大きかったので、ほとんど声となっていた。

これは幼少期に、泣いていると父親から「泣いて何か変わったか?」「泣いたって何も変わらないぞ」「お前の中の塩分濃度が少し減るだけだ」と言われてきたからだ。
泣くと怒られた。

だから泣きそうになっても、目に力を入れて涙をこぼさないように必死になるのが癖だ。あふれてきそうになったら急いで拭うのだ。

あまりに目に力を入れたようで、泣き止んだ後目の下が内出血していた。


泣いている時も下手だと思ったが、それを見て、自分は泣くのが本当に下手だと呆れた。

最近、精神状態がいい。

タイトルの通りである。

不思議なことに(世間一般で見れば逆なのだが)精神状態がいい。

 

以前はデフォルトが「なぜ死んでいないのだろうか」「7割が沈んでいる」であったのだが、

今現在は「生きていてもいいっぽい」「5~6割が穏やかで良好である」となっている。

 

一体何が自分にこの変化をもたらしたのか、考えていこうと思う。

真っ先に思いつくのが、ほぼ毎日連絡を取っていた人との連絡が途絶えたことである。

これは自分が相手に不快な思いをさせたなぁという心当たりがあるのでまぁ当然の結果だと思っている。

すると、毎日確認していたLINEの通知を気にしなくなった。こんなにも気にしていた、縛られていたのかと思うほどだ。そして、沈んでた自分には必要な交友関係だったのかもしれないとも思う。役目を終えてくれたと言い換えてもいいのかもしれない。たまに違う人からLINEが来ていると「おっ」と思う。

そうすると、他の交友関係を欲するようになった。人と接することが少ないと精神的によくないのだと学んできている。中高の友人や大学の先輩と実際に会って、甘いものを食べる(これは自分の嗜好)

自分から働きかけるということをするようになった。そうしなければ何も起こらないので至極当然なのだが。

気分の沈んでいる時は「自分が人と会っても、相手の時間を割いてまで合う価値が自分にあるのだろうか、その価値を提供できるのだろうか」という不安があったのだが、今現在は依然なぜそんなに気にしていたのか理解できないくらい気にしていない。「別にいいんじゃない?」(あれ?甘いものがあるからか?笑)と思う。

 

そのほかに、自分が物理的に存在している場所にいるんだなという感覚がわかってきた。以前はLINEやTwitterの中。物理的な場所がメインではなかったような気がする。

 

なんとなく、自分の意思で自分という生き物を操作して生きるんだなぁとしっくりしてきた。

 

あと、毎日LINEで連絡を取らなくなったおかげでその人以外にも自分を助けてくれる、支えてくれる(と言ったら言い過ぎになるかもしれないが)、関わってくれる人がいることに気づけた。

 

ほかに、仕事のジャンルはこだわらなくていいんじゃないかと、ふと思えた。もちろん一つのジャンル(ただしブラックではない)を選べるならば嬉しいが、そうじゃなくてもいいかもしれないという考えが自分の中から出てきたのだ。そういう考えもあるんだよなぁと思っていたのが、自分の中から出てきたのはなぜかわからないのだが、出てきた。

 

これは直近の出来事なので直接の関係があるかはわからないのだが、マインドフルネスとスキーマ療法の本を読んだ。

どうやら自分の感情を理解することは大切だ(以前は感情は不要なものだし、出力を調整したりするものだと思っていた)。

あと、自分の中の「ヘルシーな大人モード」を育てていく必要がある。子供の反応をすれば大抵の場は乗り切れるし、陽気なキャラは動きやすいので、ずっとそれで生きてきた。最近「もう少し大人らしく振る舞ったりしたいけど、よくわかんないなぁ~」と思っていたので「なるほど、これか!」と丁度良いタイミングで出会えたワードだった。

自分の中の考えにぴったりのワードを手に入れて、整理ができたのだろうと推測する。

 

時間を経て少しずつ自分をわかり始めた。

自分で自分という生き物を生きていくのだなぁと体に染み込んできたような気もする。

この時間は確かに必要だったとのちに言える気がする(今現在は)。

いつぞやの夢記録

あの子(商店街で人気の子)の遺品を連中が形見分けでもらってた。

連中は警察に内緒と言われてもいてもあの子を忘れることはできなかったから、形見分けしてあの子のことを覚えていたかった。いつか仇を討つために。

主人公は申し訳なさもあって部屋の中でも人の集まっていないはじっこにいた。

憔悴しきった主人公はただ無の状態のまま木のスプーンでおかゆを食べていた。

顔を上げるとあの子の思い出がよぎる。
思い出:夕陽の中で自分が謝ることもできずにただ涙を流していたらあの子は笑ってくれた。


商店街の連中(あの子の親と同世代の)がいろいろ駆使して追いかけてくる。

商店街では知り合いとすれ違う

逃げる。ひたすら逃げる。走って逃げる。

ここで捕まるわけにはいかない。

逃げる主人公はすごい身体能力を持っている。
ジャンプはスーパーボールのように体が軽く跳ねる。
指だけで板にぶら下がることができる。

屋根づたいだと速く逃げれるけど目立つ→人ごみに紛れないから

商店街の屋根下にある、屋根をを支える板にぶら下がって屋根の上を追いかけてくる連中をやり過ごす。

家の中へも連中は追いかけてくる。
開いたドアの上に立ち、天井につかまって、部屋に入ってくる連中から隠れたり、ハラハラドキドキ

部屋の白い壁に白い木の棒が柵のようにくっついている。
これにつかまると棒が曲がって倒れてしまう

家の中にあった湯のみとか一つ一つが事故を思い出させた。

列車事故
運転手の男が運転中に意識を失い、倒れた時にレバーを強く押してしまい列車が加速。線路の上にいた子供を殺した。
運転手の男は薄れゆく意識の中、進行方向に子供がいてヤバいことに気づいている。そこで意識が途絶える。
子供はピンクの服でボールを持ったふたつ結びの女の子。高い位置でふたつ結び。赤い玉の付いた髪ゴム
過失事故とみなされ、罪は不問とされた。

大学で成績偽装問題があったと今暴かれる。
4年時つらかったことだけは覚えている
偽装の噂はあったがまさか自分とは…

高校の生徒玄関前で成績表を見た記憶がよみがえる。成績はL(おそらくLOWのL)ばかり。
そういえば大学の教授の姿があった。

逃げる。

高校前の二本目の道路(大通り)の裏で轢かれて死のうとする

いくら逃げても温水さんはいる。
カメラで撮られている温水さん。本編に関与一切なし
越前リョーマもいた。本編に関与一切なし

チョー逃げる。

先生は商店街の連中に誘導させられ

あの子の家へ。

あの子の親と知り合いだったので家へよく遊びに行っていた。

回想
以前、商店街の連中は先生に社長を殺させようとした。誰かの声「人間の怖さを見たねぇ」
しかし、先生は殺さなかった。
終了

突然年寄りと将棋を指すことに。

その年寄りは事故を起こした列車会社の社長だと気付く。当時の事故の真相を聞くことに。すると、なんと社長が真の罪人だった。
先生「こいつのためにあの子は死んだのか…」
怒りが込み上げてきたが、許す。

場面が変わる。

知らない男「連中は主人公(先生)に社長を殺させようとしてた…」
さらに一緒にいた女に語る。「人間の怖さを見たねぇ」
おかゆシーンへ

ビーサン

ビーサンが好きだ。

ビーチサンダル、そう、ビーサン

 

パタンと音を鳴らしながら歩くのが好きだ。

慣れてくるとつま先の力の入れ具合でパタパタンッと2回鳴らせる。

 

パタン、パタパタン、パタパタンッ、パタン

 

夏が終わってもビーサンをやめられない。

軽やかな音はただの買い出しさえも陽気にさせてくれる。

 

パタタン、パッタン、パタパタン、パタン

 

ビーサンは陽気に過ごすためのものだ。

なにが嘘かなにが本当かわからない時

色々な情報に触れていく中で、なにが嘘かなにが本当かわからなくなったことはありませんか?
情報がバラバラで取捨選択ができなかったり、本当であってほしいことが嘘だったりしたとき、そう感じると思います。

 


嘘と本当は「自分にとっての嘘」と「相手にとっての本当」の間に生じます。
このズレは大きく分けて2パターンあるので少し話していきますね。

1つ目は2人が同時にあるものを見ている場合です。
たとえば円柱があるとします。横から見ているあなたにとって「長方形」が本当で、上から見ている相手にとって「円」が本当です。
どちらも「相手にとっての本当」は「自分にとっての嘘」ですよね。でもどちらも本当です。
この場合、相手の立場に実際に立つとすぐにわかりますよね。

2つ目は一人だけ実物を知っている場合です。
たとえば口コミです。日頃濃い味に慣れている人にとっての本当である「味が濃かった」は日頃薄味に慣れている人にとっても本当でしょうか?
きっと「本当だ」とわかると思います。
でも、それはなぜでしょうか?それは「味が濃かった」という人がどんな人か知っているからではないですか?
この場合、伝えてくれる人がどんな人か知ることで、ズレが小さくなりますね。


世界のすべてを直接自分で知ることは大変難しいです。伝聞で知ることが大半だと思います。
その時に、どんな人が判断し伝えているのかを知ることが、あなたにとっての嘘か本当かを見極める手助けになると思います。

嘘がバレない方法

まず、人なぜ嘘をつくのか考えたことありますか?

理由はたくさんあるでしょうが、その根本にあるのは何かを守るため

ってもんでございます。(昭和元禄落語心中を見たばかりなもので、話し方がうつっています)

なので、弱みがある人間しか嘘はつきません。

 

弱みがあるってことは人間らしくて良いですね。

人間の歪んだ部分、柔らかな部分、尖った部分、欠けている部分、そういうものが人間たらしめるものだと思います。

しかしそんな部分ばかりを見せびらかして「自分は弱い、ダメだ」と叫んでもだれも見向きはしてくれません。そんな部分を隠して一丁前の人間のフリをするためにもやはり嘘が必要になってくるでしょう。

 

あらためて、嘘がバレない方法というものを話しましょう。

嘘がバレるのは、その場でおかしな様子だからか、のちに帳尻が合わなくなってくるかの2択です。帳尻が合わなくなってくるのは当人の力量不足。自分の力量を考えずに大ぼらを吹いたか、最初の嘘を守ろうと嘘を重ねていったか。なるほど嘘をつくには自分の力量を見極めてからってのが大事だなと、この場で確認できたのはいいことだ。

 

ここで話したいのは、そんな自分の力量を見極められた方々が、嘘をつく現場でいかにバレずにやり過ごすかということでございます。簡単です。

余計なことを話しすぎない。普通に振る舞う。

クールなタイプならできるでしょうし、その方々はそもそもこの記事を読んでいないでしょう。

 

そうでない場合です。嘘をつく技術が低いのであれば、周りの嘘を見抜く技術を下げればいい。さらに言ってしまえば、嘘を見抜く気なんて起こさせなければいい。戦わずして勝つことこそ優れた武将の取る戦法ですから。

 

嘘を見抜く気を起こさせないには警戒されないことが一番です。

つまり、昼行灯(ひるあんどん)になることです。ピエロ、アホを演じると言えば簡単でしょうか。

そして、簡単でバレる嘘を日頃からつくことです。

バレバレの嘘をついていると周りは「この人は嘘がわかりやすい」といとも簡単に警戒を解いてくれるのです。「嘘がわかりやすい」と思い込ませることはとても便利です。本当にバレたくない嘘をつく時、ごく自然に話せばいいだけなのです。相手は一寸もあなたを疑ってはいない状態ですから。

 

気を付けるべき相手は鋭い人間です。あなたが昼行灯を演じているのでは?と疑う、もしくは、気づく人間もいることでしょう。そういう人間には腹を割って話した方が賢いです。嘘をばらして、味方になってもらうか見て見ぬふりをしてもらうかするのが気苦労もしないで済みます。

 

最後に小話的なことをいいますが、「嘘をつく」の「つく」とは「吐く」と書くのだそうです。どんなに苦しい思いで吐いているのでしょうね。吐かないで済むのならそれがいいでしょう。日頃から嘘をついていると、嘘をつかないではいられない人間になってしまいますよ。

何より、自分への嘘でいっぱいになってしまいますから…。

最終回だけ見れない病

このたび5年半に及ぶ、中島みゆきオールナイトニッポン月イチが最終回を迎えてしまった。

みゆきさんは「クールの切れ目だから」とあっさりしていた(あまりにあっさりしていたあので最初聞いた時は聞き流してしまい、気づかなかったほどだ)が、樹木希林さんの訃報があった日の深夜に最終回なもので、実は病気なんじゃ…といらぬ心配をした。

そしてその最終回を未だに聴けずにいる。

このクセ、昔からそうだなぁと笑ってしまう。

思い返せば、好きなドラマの最終回も好きなアイドルの卒業公演も何か月か遅れて見たことがある。いまだに見ないで半年以上寝かせているものだってある。

終わってしまうことが寂しいのだ。見たら「最後」が始まり、そして終わる。

「最後」の最後を迎えてしまったら本当に終わってしまうのだ。

 

終わることを受け入れられていないと言う人もいるだろう。

これが自分の寂しさの表現なのだ。

愛しさの残り香は寂しさなのだ。