機能的代替物を超えるもの

今日、お風呂で考えていました。考えていたというよりは自分の中にあるものを結び付けていたと表現した方が正しいです。

 

Twitterで知り合いが

 

機能的代替物はたくさんあるだろうと思う。一つ一つの要素を取れば、それぞれについて「もっといいもの」はこの世にたくさんある。それでも、私は東京ディズニーシーという場でご飯を食べたいしお酒を飲みたいし景色を見たいし花を愛でたい。それはもう情だよね。

 

とずいぶん昔につぶやいていたことを思い出しました。

自分はこのツイートを見た時にとても感動したことを覚えています。自分が自分であるの価値ひいてはそのものの価値を考えていた時に、そのものである必要性ってないんですよ。

例えば、ある学校の生徒会長が死んだとしますよね(例えが極端)。生徒会長の仕事は副生徒会長なり他の学生が務める訳です。生徒会長という枠の中は誰でもいいのです(当然求められるパフォーマンスを発揮できる人材であれば)。今は生徒会長という枠で説明しましたが、世の中には「社員」「友達」「子供」など求められるパフォーマンスを発揮できれば誰でも良い枠しかないのです。つまり、あなたは「あなた」という枠の中にいるだけであなたである必要はないのです。

このことを自分の中で結論付けてからか「大切」という、うっすらとした感覚はあるのだけれども、「大切」はこの理論に反するとでも言いましょうか、価値があると思い込んでいるだけのように感じれたのです。可換なものでしかないという、非常に惨めな(残念な、悲しい、むなしい)気持ちになりました。(理論とか言っておきながら感情の話になっているんだなって今気づいて自分のレベルの低さに苦笑しています)

 

そうやって、どこか諦めたように生きてきた自分に先ほどのツイートは刺さりました。

「情」を理論に持ち込んでいいんだ!

ちょっと表現が正しくないな。

「情」の存在を認めていいんだ!

この表現だな。「弱い人間が持つくだらないもの」だと思ってきた(そう思い込まされてきた)情の存在が認められたのです。情を持つことが許されたのです。涙が出てきましたよ。

 

それと関連して「IQとEQのバランスが悪い」という言葉を思い出しました。

これは小学生の時に担任の先生に言われた言葉です。教師批判ではありません。子供心に「自分の身体年齢の割に頭が良すぎるってことか」と調子に乗りました。めちゃくちゃ嬉しかったです。

 

これら二つの話が結びつきました。頭の中にデータが二つある棒グラフを用意してください。高い方がIQ、低い方がEQです。IQ値の周辺のことなら理論的に考えられます。ですが、その周辺にEQ値がないと「情」の存在は理論的に考えられない、存在を認めることができないのです。

今の自分はやっとその二つのバランスが取れたのでしょうか。IQ値が下がったのかEQ値が上がったのかを考えると卑屈にもなりますが、今日はこのことが分かっただけで良しとします。(これ以上考えないのは逃げなんだろうなとか考え始めてしまっていますが、強制終了です。考え始めてしまったので晴れやかな気持ちではありませんが、それでもこのことに至った自分を褒めなくちゃ、自己受容だ。と焦り出しましが、やっぱり強制終了。あ゛ー!むりやりすっきり!とやや怒り気味に)

 

生きがいは何ですかと聞かれた

Askというサイトに登録しています。

ほかのユーザーが質問を匿名or非匿名で投げかけてくれるほか、ランダムで質問を受け取ることもできます。その質問に対して答えていくというサイトです。

そのサイトでは一日ひとつ全ユーザーに対して「本日の質問」が投げかけられます。

先日の質問が

あなたの生きがいって…

でした。

答えずに削除することもできました。いつも、ランダム生成の面倒な質問は削除します。ニートの自分に生きがいなんてないよ(笑)そう思ったけれど、ふと答えてみようと思ったのです。逃げている部分に自分の見えていないものが隠されているんじゃないか、そう思ったような気もします。

そして十数分かけて出した答えが以下のものです。

 

周囲の人が笑顔になること。判断基準が自分にないのでいろいろ危ういことは認識しているし、需要を正しく読み取れていないと逆効果になることさえあるけれど、結局人との関わりの中に生きがいがあるのだと思います。未熟さ故ままならぬことばかりですが。

・・・へー、そうなんだ。今の自分はそう考えているのだと初めて認識したようです。なんとなくそういうことが大事だなぁと思っていましたが、判断基準が~なんて考えてもみなかった。

判断基準が自分にないので、周りの顔色を窺いすぎる(へー、これでうかがうって読むんだー)、自信がついてもその場だけの自信。結局自信がつかない。また、周りの人間が良い人ばかりとは限らない。そんな危うさを認識しました。

今、絶賛自分を大切にしようキャンペーン中なので、自分の感情を理解することを心がけています。というか、キャンペーン名、今付けました。鬱っぽくなりがちなのですが、メンタル面が落ち着いているので心理学系とかの知識を増やしてメンタルを強くしようと思ってます。話の本筋がぼやけました。まぁ、そんな背景があることを紹介しました。

自分がそう感じているということ、質問から逃げなかったからわかったのだと思います。少し成長です。ちょっと嬉しかったです。

 

面白いことを書きたい

日常の些細なことを大げさに面白おかしく書く。

とても難解なものを小学生にもわかるように書く。

 

つまらない⇔面白い

難しい⇔易しい

 

全く逆の要素への変換された文章がとても読みたくなる文章、人を引き付ける文章なのではないかな。

 

 

今の自分には

・内なる言葉を豊かにしていない

・話題にできるストックが足りない

・周囲の出来事を捉える力が足りない

などの理由でまだまだできないと思う。

ざっくり言えば、教養と見る力の二つだろうか。

だからと言ってこれらを理由に面白いことを書くことに試みないことは成長しないことである。「こと」を多用しすぎて見苦しい文章だな。それでも直さないで進めるぞ。

 

少しずつ文末が砕けた物言いになってきた。ほぐれてきた証であろうか。

父親との出来事

ひとつ前の記事で述べた通り、父親との出来事に少し触れる。

少ししか触れないのは、自分が耐えられないからだ。

だから、これはいつか対峙しなければならないこと。

 

そもそも、この話題に触れる必要があると自分で感じたのは、メモ用紙に自分の考えていることを書き出す作業をしたからだ。これが経緯。

 

そして父親との関わりで一番自分に影響を及ぼした出来事が、これから少し触れる出来事。

 

 

高2の12月

 

このワードだけで動悸が速くなるのを感じる。書き出す作業の時、動悸が速くなるだけではなく文字が急にゆがみ始めて書ききれなかった。涙が出てきて耐えられなかったのだ。今もそうだ。涙が、動悸が…。目を見開いて、深呼吸してキーボードを叩く。

逃げたい。でも、いつまでも逃げ続けてはいられない。

 

高校2年生。

勉強はできる方で楽しいと感じていた。先生に質問に行くのが楽しいと感じる学生だった。目の前の問題に取り組んで「できたー」と無邪気に喜ぶタイプだった。

 

12月。

夜、父親に呼び出されて進路の話をしなければならなかった。父親はビール片手にパソコンでゲームをしていた。

話の内容は

・志望大学が決まっていないのになんとなく勉強していたら”なんとなく”で落ちる

・大学に入るなら卒業できる学力を持って入学しろ

・それができないならお前は遅れている

・大学は教授で選べ

・教授は専攻分野で選べ

・教授の専攻分野に興味がない?興味を持て

ぱっと思い出せるものでもこんな感じでした。

 

話が終わる頃には12時を過ぎていたかと思います。

自室で泣き崩れて親友にもらったぬいぐるみに、取れない涙の痕がつきました(笑)

 

触れた。よく投げ出さなかった。追記してもいい。今日はこれで終わらせてください。

アダルトチルドレン

自分の中を整理したくて、考えていることをメモ用紙に書き出して机に並べていくという作業をした。

 

恥ずかしながら、自分を見直す作業だ。

 

教員になりたかった頃の気持ちがうまく整理できていなくて。

 

教員になりたい理由として「生徒と接するのが好きだから」

生徒と接するのが好きな理由として「子供のままの自分でいれるから」

 

 

 

愕然とした。

 

 

最近Twitterで、自分は幼児的願望が満たされていない、いわゆるアダルトチルドレンだということを認識した。認めた、というよりは見させられたという感覚だった。

父親のせいで…とは言いたくないのだが、父親に由来する、よる、感覚なのだとはすぐにわかった。

「子供のままの自分でいれるから」

そうだったのか…

 

結局、自分は、自分で生きていなかったのだ。

 

 

次の記事で父親との出来事について少し触れる。

 

 

はてなブログを始める目的

 言語化することが怖い。

 

 今自分の中にある感情だ。

 昔は「言葉で語るなんて粋じゃないなぁ」なんて言って、言葉にすることを避けてきた。江戸っ子でもないのに本当にそう思っていた。

 

 しかし、ある程度歳を重ねてからは

「言葉にするのがめんどくさい」

「どうせ伝わらない」

「自分の中の負の感情を言葉にして直視することが怖い」

というように気持ちが変遷してきた。そして歳を重ねるほどに、言葉にしないことの問題に気付き始めた。「自分の気持ちがわからない」のだ。モヤモヤするのにそれを解決する方法以前にモヤモヤの正体がわからず対処できない。これは厄介なことで、「わからない」という影がモヤモヤを大きくして自分を押しつぶしてくる。

 

 人と話したり文章を読んだりすると、ああ自分はこういうことが言いたかったんだと思うことが多い。人の言葉で納得する。つまり、自分の言葉で生きていないのだ。このことに気づいたとき、モヤモヤが生まれた。このモヤモヤが何なのかを言い表すことすらできないので、モヤモヤが重なっていく。自分の人生を自分で生きていないのは嫌だ。

 

 また、海に漂う海藻のように、なんとなく生きているので語れるようなものがない。語れるほどの自分の好きなものがわからないのだ。世の中で見聞きしているうちに、何も語ることのできない薄っぺらい自分が情けなくてむなしく思えてきた。自分の活力になるものがないようで、寂しさとともに少しの怖さも感じる。

 これは自分の性格にも帰来するのだろうが、言語化することで自分がどう考えているのか感じているのかを知るきっかけになればいい。

 

 以上2点、

・言語化する恐怖を克服することで、自分の人生を自分で生きる

・言語化することで自分の思想を認識する

という目的をもって、このはてなブログを始める。

 

 なお、今後の自分に対して「推敲を重ねないこと」を課す。完璧を目指していつまでも完成させないことを避けるため、そして読み返した時に自分の文章の拙さを笑うために心に留めておいてほしい。