日本語を味わおう1 オノマトペ

普段使っている日本語。

しかし、手段としか見ていないのではないだろうか?

日本語はもっと面白いものだと、もっと味わい深いものだと、声を大にして言いたい。

 

 

前置きはさておき、今日はオノマトペについて述べていきたい。

オノマトペとは、
自然界の音・声、物事の状態や動きなどを音(おん)で象徴的に表した語。音象徴語。擬音語・擬声語・擬態語などのことである。
 
簡単に言えば、にゃーにゃー、ぺたぺた、わくわく、ぶよぶよなどのことだ。
 
 
 
ここに一つ、「入れ替えたらどうなるか」という仕掛けを用意してみた。するとどうだろう。
 

とことこ 歩く
ことこと 煮込む

とぼとぼ 帰る
ぼとぼと 落とす

きこきこ 舟をこぐ
こきこき 肩が鳴る

げしげし 蹴る
しげしげ 眺める

かちかち クリックする
ちかちか 点滅する

ずしずし やってくる
しずしず ついてくる

ちびちび 飲む
びちびち 跳ねる

どくどく 脈打つ
くどくど 愚痴を言う

 

探してみると実に面白い。

オノマトペを思い浮かべるとき、その光景まで頭に浮かんでくるのが心地良い。

 

他にもないかぜひ探してみてほしい。よければ見つけた際に教えてほしい。

 

 

最後に一つ、こんなものも見つけたという報告で締めたいと思う。

 

ぷかぷか 浮かぶ
かぷかぷ 笑った

ってこれはクラムボンか(笑)

 

みんな早く死んだ方がいい。

長生きは良いと思い込まされている。

 

実際は体はいうことを聞かなくなるし頭はボケてくる。

年金が減りますという知らせが届き、毎月肩を落としながら年金を下ろしに行く。

ここまでは容易に想像できるだろう。


同世代の知り合いは次々に死に、葬式へ行くたびに雀の涙ほどの年金は消えていく。半年に7回葬式に行くというのも本当にある話なのだ。

箸の置いてある場所もわからなくなり狼狽えていると呆れられ、家族に座っててねと冷たいやさしさに追いやられる。

新しい記憶は次々と消えていくのに惨めさだけは確かに積もっていく。

家族に迷惑をかけ、早く死んでしまいたいとぼやく。

安らかな死に顔を見るたびにあんな風に死にたいねと言う。

楽しみは通い詰めている病院と”毎回”初めて食べる料理だ。

 

 

家族にとっても正直迷惑だ。鬱状態の年寄りに何度も死にたいだの自分の存在は邪魔だの繰り返しウジウジ言われて、「理論立っていない会話でも続けてあげてください」「聞いてあげるのが大事なんですよ」と言われて、イライラをかみつぶしながら「そうだね」「~なんだ」と返事をすれば、年寄りは聞こえなくて「なに?」とか、あるいは全然違うように解釈されて話は飛躍し、怒鳴りつけそうになる。怒鳴りつけるのが良くないのはわかっているから黙るようになる。

もはや、家に家族は存在しないのだ。

 

これはただの吐き出した記事。読み返してもイライラするのでいつか捨てること。

眩しすぎて目がくらむ

知り合いの生きがいは、いろいろな人に会うこと、楽しいことをすること、だそうだ。

それを話す人はキラキラしていて輝いていて、眩しくて、目がくらんだ。

なんでそんなことをキラキラしながら話せるんだ。”そんなこと”は、全部自分の諦めてきたことだった。

 

惨めさを感じた。相手に非はない。自分の感じ方が悪い。それだけのことだった。

たった、それだけのことだった。

機能的代替物を超えるもの

今日、お風呂で考えていました。考えていたというよりは自分の中にあるものを結び付けていたと表現した方が正しいです。

 

Twitterで知り合いが

 

機能的代替物はたくさんあるだろうと思う。一つ一つの要素を取れば、それぞれについて「もっといいもの」はこの世にたくさんある。それでも、私は東京ディズニーシーという場でご飯を食べたいしお酒を飲みたいし景色を見たいし花を愛でたい。それはもう情だよね。

 

とずいぶん昔につぶやいていたことを思い出しました。

自分はこのツイートを見た時にとても感動したことを覚えています。自分が自分であるの価値ひいてはそのものの価値を考えていた時に、そのものである必要性ってないんですよ。

例えば、ある学校の生徒会長が死んだとしますよね(例えが極端)。生徒会長の仕事は副生徒会長なり他の学生が務める訳です。生徒会長という枠の中は誰でもいいのです(当然求められるパフォーマンスを発揮できる人材であれば)。今は生徒会長という枠で説明しましたが、世の中には「社員」「友達」「子供」など求められるパフォーマンスを発揮できれば誰でも良い枠しかないのです。つまり、あなたは「あなた」という枠の中にいるだけであなたである必要はないのです。

このことを自分の中で結論付けてからか「大切」という、うっすらとした感覚はあるのだけれども、「大切」はこの理論に反するとでも言いましょうか、価値があると思い込んでいるだけのように感じれたのです。可換なものでしかないという、非常に惨めな(残念な、悲しい、むなしい)気持ちになりました。(理論とか言っておきながら感情の話になっているんだなって今気づいて自分のレベルの低さに苦笑しています)

 

そうやって、どこか諦めたように生きてきた自分に先ほどのツイートは刺さりました。

「情」を理論に持ち込んでいいんだ!

ちょっと表現が正しくないな。

「情」の存在を認めていいんだ!

この表現だな。「弱い人間が持つくだらないもの」だと思ってきた(そう思い込まされてきた)情の存在が認められたのです。情を持つことが許されたのです。涙が出てきましたよ。

 

それと関連して「IQとEQのバランスが悪い」という言葉を思い出しました。

これは小学生の時に担任の先生に言われた言葉です。教師批判ではありません。子供心に「自分の身体年齢の割に頭が良すぎるってことか」と調子に乗りました。めちゃくちゃ嬉しかったです。

 

これら二つの話が結びつきました。頭の中にデータが二つある棒グラフを用意してください。高い方がIQ、低い方がEQです。IQ値の周辺のことなら理論的に考えられます。ですが、その周辺にEQ値がないと「情」の存在は理論的に考えられない、存在を認めることができないのです。

今の自分はやっとその二つのバランスが取れたのでしょうか。IQ値が下がったのかEQ値が上がったのかを考えると卑屈にもなりますが、今日はこのことが分かっただけで良しとします。(これ以上考えないのは逃げなんだろうなとか考え始めてしまっていますが、強制終了です。考え始めてしまったので晴れやかな気持ちではありませんが、それでもこのことに至った自分を褒めなくちゃ、自己受容だ。と焦り出しましが、やっぱり強制終了。あ゛ー!むりやりすっきり!とやや怒り気味に)

 

生きがいは何ですかと聞かれた

Askというサイトに登録しています。

ほかのユーザーが質問を匿名or非匿名で投げかけてくれるほか、ランダムで質問を受け取ることもできます。その質問に対して答えていくというサイトです。

そのサイトでは一日ひとつ全ユーザーに対して「本日の質問」が投げかけられます。

先日の質問が

あなたの生きがいって…

でした。

答えずに削除することもできました。いつも、ランダム生成の面倒な質問は削除します。ニートの自分に生きがいなんてないよ(笑)そう思ったけれど、ふと答えてみようと思ったのです。逃げている部分に自分の見えていないものが隠されているんじゃないか、そう思ったような気もします。

そして十数分かけて出した答えが以下のものです。

 

周囲の人が笑顔になること。判断基準が自分にないのでいろいろ危ういことは認識しているし、需要を正しく読み取れていないと逆効果になることさえあるけれど、結局人との関わりの中に生きがいがあるのだと思います。未熟さ故ままならぬことばかりですが。

・・・へー、そうなんだ。今の自分はそう考えているのだと初めて認識したようです。なんとなくそういうことが大事だなぁと思っていましたが、判断基準が~なんて考えてもみなかった。

判断基準が自分にないので、周りの顔色を窺いすぎる(へー、これでうかがうって読むんだー)、自信がついてもその場だけの自信。結局自信がつかない。また、周りの人間が良い人ばかりとは限らない。そんな危うさを認識しました。

今、絶賛自分を大切にしようキャンペーン中なので、自分の感情を理解することを心がけています。というか、キャンペーン名、今付けました。鬱っぽくなりがちなのですが、メンタル面が落ち着いているので心理学系とかの知識を増やしてメンタルを強くしようと思ってます。話の本筋がぼやけました。まぁ、そんな背景があることを紹介しました。

自分がそう感じているということ、質問から逃げなかったからわかったのだと思います。少し成長です。ちょっと嬉しかったです。

 

面白いことを書きたい

日常の些細なことを大げさに面白おかしく書く。

とても難解なものを小学生にもわかるように書く。

 

つまらない⇔面白い

難しい⇔易しい

 

全く逆の要素への変換された文章がとても読みたくなる文章、人を引き付ける文章なのではないかな。

 

 

今の自分には

・内なる言葉を豊かにしていない

・話題にできるストックが足りない

・周囲の出来事を捉える力が足りない

などの理由でまだまだできないと思う。

ざっくり言えば、教養と見る力の二つだろうか。

だからと言ってこれらを理由に面白いことを書くことに試みないことは成長しないことである。「こと」を多用しすぎて見苦しい文章だな。それでも直さないで進めるぞ。

 

少しずつ文末が砕けた物言いになってきた。ほぐれてきた証であろうか。

父親との出来事

ひとつ前の記事で述べた通り、父親との出来事に少し触れる。

少ししか触れないのは、自分が耐えられないからだ。

だから、これはいつか対峙しなければならないこと。

 

そもそも、この話題に触れる必要があると自分で感じたのは、メモ用紙に自分の考えていることを書き出す作業をしたからだ。これが経緯。

 

そして父親との関わりで一番自分に影響を及ぼした出来事が、これから少し触れる出来事。

 

 

高2の12月

 

このワードだけで動悸が速くなるのを感じる。書き出す作業の時、動悸が速くなるだけではなく文字が急にゆがみ始めて書ききれなかった。涙が出てきて耐えられなかったのだ。今もそうだ。涙が、動悸が…。目を見開いて、深呼吸してキーボードを叩く。

逃げたい。でも、いつまでも逃げ続けてはいられない。

 

高校2年生。

勉強はできる方で楽しいと感じていた。先生に質問に行くのが楽しいと感じる学生だった。目の前の問題に取り組んで「できたー」と無邪気に喜ぶタイプだった。

 

12月。

夜、父親に呼び出されて進路の話をしなければならなかった。父親はビール片手にパソコンでゲームをしていた。

話の内容は

・志望大学が決まっていないのになんとなく勉強していたら”なんとなく”で落ちる

・大学に入るなら卒業できる学力を持って入学しろ

・それができないならお前は遅れている

・大学は教授で選べ

・教授は専攻分野で選べ

・教授の専攻分野に興味がない?興味を持て

ぱっと思い出せるものでもこんな感じでした。

 

話が終わる頃には12時を過ぎていたかと思います。

自室で泣き崩れて親友にもらったぬいぐるみに、取れない涙の痕がつきました(笑)

 

触れた。よく投げ出さなかった。追記してもいい。今日はこれで終わらせてください。