叶わないであろう約束を祖母とした。

冬の終わり。春の気配を少し感じる頃に祖母と約束を一つした。
あたたかい大判焼きを一つ、半分こして食べた。
それは約束というより、おそらく叶えられることがないであろう夢だ。

 

「一緒にこの大判焼き屋さんまで歩こう」

「これはカスタードでね、他にもあんことか抹茶とか、チーズあんっていうのもあったよ」

 

祖母は年々歩くのが容易ではなくなり、アルツハイマー認知症の影響もあり外に出かけるのを躊躇うことが多くなった。

 

少し遠いけれど、歩いていける距離の大判焼き屋さん。
10月半ばから開店する大判焼き屋さん。

 

果たして行けるだろうか。
きっと行けないんだろうな。
この約束、もう覚えていないんだろうな。

 

それでも「おいしい」と笑ってくれた。
練習に「頑張って駅まで歩くようにします!」と言ってくれた。

 

きっと叶わない約束は自分の胸の中にずっとあり続ける。

 

きっと叶わない。

 

きっと、叶わない。


少し泣いた。

施設にいた家族の死

近親者が死んだ。

施設に預けて何年だろう。
3,4年は経つだろう。

一回も会いに行かなかった。


その人は脚が悪く、びっこひくような歩き方だった。
金魚を飼っていて、途中から熱帯魚を飼い始めて、昔から庭の植木いじりが好きだった。庭には柊、枇杷、赤南天、よくわかんない葉っぱ、たくさんあった。途中でやめてしまったがドールハウスを一緒に組み立てていたことがあった。絵の具を買ってきて色を塗った。甘いものが好きで冬は自販機におしるこを入れることを外さなかった。

その人は脚が悪い事から動くのが容易でなく、歳とともにだんだんと衰えていった。家の中ではいわゆるお荷物的な存在になっていった。
餓鬼がとり憑いたように食べ、大小便を漏らすこともあり、通路をふさいで邪魔になる。お風呂は45度になっていてやけどしそうになったことがある。

食事時は祖父が怒鳴りつけ、その人は黙って、祖母が擁護して、嫌な時間だった。

思春期の自分はその人を邪険にしていた。
思春期という言い方は良くないな。自分を擁護しているみたいだ。
通路をふさぐのが邪魔だったし、異様に食べるのが気持ち悪く見えたし、汚れた手でどこでも触るし、その後始末をさせられるし、すごく嫌だった。

その人は怒らなかった。責められても怒らなかった。

自分は直接怒鳴ったりはしなかったがひどく冷たく接していただろう。

施設に預けることになった時、家の中が大人しくなると安心した。怒鳴り声を聞かなくて済むし、邪険にしなくて済む。目障りなものが消える、そんな感覚に近かった。ひどいやつだな。

施設に家族はたびたび顔を出していた。
はじめのうちは、誘われてもわざわざ会いに行きたくないと思って断っていた。
そのうち、会っても話すことがないと思って断るようになっていた。
最後には、あんな冷たく接していた自分は合わせる顔がないと断るようになった。

最期の8か月くらい前に施設からそろそろですよと言われた。会いに行けなかった。7月。夏のことだった。

11月頃、自分はこのまま会わずに後悔を一生抱えていくんだろうなと思った。
そのあと今更一緒に行くとは言いだしづらく一人で会いに行こうかと少し思うようになった。


会いには行かなかった。

 


その人の呼吸が止まったと告げられたのはお風呂に入っている時だった。祖父がバタバタとして出かけ、なんだろうと思っていたら声を掛けられた。
呼吸が止まったと。
父はお酒を飲んでいたので運転してほしいと。
突然のイベント発生にアドレナリンが出てテンションは高かった。
その一方で、遂にか、と冷静な自分もいた。

急いで頭を洗い流し、コートとカバンを持ってきてくれるとすぐ出れるよと返事をした。

今更急いだってどうすることもできないからと髪を乾かす時間をもらった。

助手席に父を乗せ祖母と母を待つ。240台限定のミニが日本に入ってくるらしい。父が話した。

祖母の身支度が整ったようで祖母と母が遅れてやってきた。シートベルトの確認をした。ルートの確認をした。

こんな時だから安全運転だよ、と普段言わないようなことを口にした。

今日会いに行った祖母によればもう意識もなく返事もなかったらしい。


大きな十字路を右折したのは21:55

初めて施設に入った。
始めて部屋に入った。

久しぶり、いや、初めて会った。

即身仏のようなガリガリの姿だった。
知らない顔だった。

死んで全て流れ出たのだろう、独特のにおいが漂っていた。

いったん部屋の外に出された。
ロビーのようなところで祖父が親類に電話し自分は兄に連絡した。「その人が死んだよ。」という一言だった。

体を拭きにまた部屋に入った。

青いビニールのエプロンのようなものを着ている若い職員の方もいた。この人の目にはこれはどう映っているんだろうとふと思った。

施設の方がパジャマを脱がせた。ガリガリの体だった。

体を拭く作業が始まった。祖父が顔を拭き、祖母、母、父、とタオルを手渡され拭いていった。
最後に自分だった。

母が「まだあったかいよ」と言った。
脚を拭いた。悪くなっている脚を拭いた。
あ、ほんとうだ、まだあたたかい。

一瞬でよくわからなかった。

それから葬儀屋がくるまで待合室に通された。
祖父は葬儀の話を始め、葬儀屋が来てからでいいと宥められていた。そのうちに自販機のところへ行ったりトイレに行ったりさまざまであった。
自分はもう一度その人を見に行った。
ひげを剃ってもらっていた。
「こういうのは男の人慣れてるからねぇ」と柔らかく少し明るい声で話していた。

少しの間、一人になった。
顔を覗き込んでみた。少し怖かった。
おでこを触ってみた。本当だ、温かい。自分の手が冷たいのもあるが、自分より温かかった。自分の手よりも温かい死体だった。
揺らしてみた。力なく動くそれは肉体だった。へぇ、力が入っていないとこんな風に動くんだ。
今度は撫でてみた。結構ざらざらしてて硬い皮膚だった。こんな触り心地だったんだ。
指で押してみた。ゴムみたいな弾力があって跡が残る。
耳を引っ張ってみた。案外普通だった。
足先を触ってみた。爪が伸びてるなぁ。少し冷たくなっていた。

ほぉ、これが死かぁ。

葬儀屋さんが来てストレッチャーに移された。肉体の下にバスタオルを敷いておくと移しやすいんだって。

それと一緒にエレベーターに乗り、施設を後にした。玄関まで職員の方は見送りに来てくれた。


葬儀屋さんに着くと遺体が寝かされ上にドライアイスを乗せていた。夏は大変そうだなと思った。

少しすると檀家のお寺の方が来てお経をあげた。
そのあと、日程の相談。
お寺の人も葬儀屋の人もスマホでスケジュールやら何やらを管理していて文明だなぁと思った。
スマホで火葬場の空きを確認していた。

お通夜、葬儀、火葬等の予定を決めてその日は終わり。

こうやって終わってゆくのか。

 

 

 

ピザトースト

なんだかモヤモヤした時、抱えきれない”何か”を持て余している時、私はTwitterで「ピザトースト」と画像検索する。

 

そこには各人の手作りのピザトーストが並ぶ。

チーズの量、トッピング、様々で個性が出るのが面白い。
ピザトーストほど手作りの美味しそうなものが並ぶ検索ワードはないだろう。
同じトースト系の「たまごサンド」で検索してもどこかの喫茶店のものやコンビニ商品が並ぶ。
手作り確実!と「#お弁当」で検索しようものならSNSに載せるために気合入れました☆感満載のとってもかわいらしいものが。

 

そう、「ピザトースト」は純粋に食べるためだけに作られ、「人間の生活」を感じさせてくれる代物なのだ。

 

 

最低限ケチャップとピザ用チーズが乗っていればそれはピザトースト
ハムやベーコン、玉ねぎ、ピーマン、トマト、たまごが乗っていたらそれはもう高級ピザトースト


世の中には数多くのピザトーストが存在する。

・きんぴら入り
・ケチャップの上に茹で卵のスライスを乗せたエッグピザトースト
・パンが見えないほど大量のチーズの乗った
・コーンが入っている
・焦がしてしまった
・魚肉ソーセージのスライスを乗せた
・ウインナー
・ピーマンの輪切りの乗った
・マヨネーズをプラスした
・スライスチーズバージョン
・バジルをかけた
・タバスコをちょっと
・キャベツ入り
からしとケチャップを混ぜたバージョン
しらす入り
・ホームベーカリーの米粉パンでピザトースト
・オリーブオイルでみじん切りにしたニンニク炒めて

 

そして、誰が作ったのか
・おばあが作ってくれた
・うちのシェフ(妹)に作ってもらった
・次女が作った

 

おまけ情報まで教えてくれる
・大量に作って残りは土日の朝ごはんになる
・カリッカリの焼きたてピザトースト(冷凍庫に入れっぱなしで水分がほぼ飛んでしまったためカリッカリにw)

 


茶店のものでも時折思い出を引き出してくれる。
・とある喫茶店に入り、なんの気もなくピザトーストを頼んでみたのだけど小学生の夏休みに、おじいちゃんが毎朝作ってくれてたピザトーストみたいに、一口大に切ってあるのだ。もちろんこんなに立派なものでは無かったけど。そして、フォークでそれを食べるの。今は亡き大好きなおじいちゃん


私は「ピザトースト」に人間の生活を、おいしそうという幸せを、そしてあたたかさを見出しているのかもしれない。

震災の影響

どうしても今日のうちに更新しておきたい。(できなかった)

1月17日。阪神淡路大震災から今年で25年となる2020年。

 

askでこんなシャウトがあった。

25年前の震災からずっと無職だったお父さんがやっと職に就きました。私が産まれた時からずっと家にいた父。母と年数回連絡取る程度で父とは10年口を聞いてません。 そんな父が会いたいらしいのですが私は父を許せません! 母は地震があって仕方なかったと言ってますが... 地震の影響ってこんなにかかるものですか?

 

おそらく震災を直接知らないであろう質問者の方にとって、お父さんはよくわからない理由でお母さんに庇護されている存在で、苛立ちを持っている。

25年もの間震災の苦しみと戦い続けて、それでも職に就くことをあきらめなかったお父さんがすごく強いな…というのが正直な第一印象。”父親”という立場として働いて家を支えるのが”普通”と思っていたかもしれない。でもその”普通”をできない自分。

娘によく思われていないことにも気づいていたかもしれない。

苦しかったと思います。職に就いていない間はどうしても後ろめたくて、自分の娘に会うどころか、会いたいとすら言えなかった気持ちを考えると、やっと、自分の娘に会いたいと言えるようになったんだなと涙ぐんでしまう。

 

震災の影響は年月ではない。

年月の分記憶は薄れるかもしれないが、年月の分傷つき続けるのかもしれない。

 

25年、長かったんだろうな…。

言っていい人と悪い人がいる

これは自分がまだ小学生の頃の話だ。
と言っても記憶力の低さに自信があるので少し朧気だ。

ある日何かを壊してしまった。
(記憶力が低い事は先述したからね)

やってしまった!と思った。
側にいた母にそれを見せ(どうしようどうしよう)と考え、とっさに「まぁ、形あるものはいずれ壊れますから」と言った。
物が壊れると母が仕方ないよとそう言ってくれることがあったからだ。
それなのに母は「あんたが言うことじゃないでしょ」と少し不機嫌になったのだ。
同じことを言っただけなのになぜ不機嫌になるのかすぐに理解できなかった。
ただ、同じ結論でも言っていい人と悪い人がいるらしい
ということだけが頭に残った。

今になってみれば反省の色が見えなかったのもあるだろうと思うが、完全に理解しきれていないような気がして今でも少し引っかかったままの出来事である。

中島みゆきラストツアー

記録しておきたい。

中島みゆきさんがラストツアーを行う。

気づかぬ間に”ラスト”とついたツアー。

自分にとって彼女はラジオの人で、楽曲は知っているし、現在進行形で音楽活動をしていることも知っているが、どこか違う世界線のような感覚だった。

 

突然舞い込んだツアーの知らせ。

え、ツアー!?

ラストツアー!?

慌てて開いたネットニュース。

ツアータイトル「結果オーライ」

 

まいったな(笑)

寂しさの気配すら一瞬で吹き飛ばされてしまった(笑)

 

去り際までかっこいい。

ああ、この人にはかなわないな。

いつまでも憧れ続ける。

雨の窓ガラス

雨の日に車の窓を見るのが好きだった。

窓の中で、雨粒と雨粒がぶつかってつながって流れていく。

そのまま流れていくと思ったら別の雨粒がぶつかって弾け飛ぶ。

流れていくうちに雨粒が小さくなって最後までたどり着けない。

そこに別の雨粒がぶつかってすごい勢いで窓の端まで流れていく。

もう動けないかと思ったらポツンとそこにいた雨粒と合流して再び流れ出す。

ゆっくりと流れてもう少しでゴールだと思った瞬間別の流れに飲まれる。

窓ガラスにぶつかって見えなくなるまでの物語は、退屈な移動時間に寄り添ってくれた。

車のスピードが上がると横に流れていくそれを、すごいすごいとはしゃいでいた。

ただ眺めているだけでいつまでも飽きることがなかった。

 

今はワイパーで窓の端に追いやる人間になってしまった。

 

 

雨が降ってふと思い出した話。