『もし僕らの言葉がウイスキーであったなら』村上春樹

 『もし僕らの言葉がウイスキーであったなら』という村上春樹さんのエッセイを読んだ。

 村上春樹さんの名前は知っていたけれど文章に触れるのは初めてだった。この本を手に取ったのは本屋さんに並んでいた中で一番薄くてさっと読めそうだから。そして、エッセイなら物語の語り手や作中の誰かの視点ではなく”村上春樹”の言葉を読めるから。

 ”人によって好き嫌いがはっきり分かれる”という認識だった村上春樹さんに対して、初めて自分で読むことで自分だけの印象を持てる。前評判がいいだけにドキドキとわくわくを両手に抱えていた。しかし彼の文章と(彼と)向かい合う時、自分と本に書かれている彼の文章、その間には何も入り込むことはできない。まっさらな出合いなのだ。

 

もし僕らのことばがウィスキーであったなら (新潮文庫)

シングル・モルトを味わうべく訪れたアイラ島。そこで授けられた「アイラ的哲学」とは? 『ユリシーズ』のごとく、奥が深いアイルランドのパブで、老人はどのようにしてタラモア・デューを飲んでいたのか? 蒸溜所をたずね、パブをはしごする。飲む、また飲む。二大聖地で出会った忘れがたきウィスキー、そして、たしかな誇りと喜びをもって生きる人々――。芳醇かつ静謐なエッセイ。

 

 初めての村上春樹さんは……とても理にかなった人という印象だった。

 彼は「とても〜で、とても〜で、とても〜で、」「~的に、~のように」と繰り返していた。木をあらゆる角度からノミで削って正確な立体を切り出すように、物事を多角的に見て言葉を尽くすことで言葉の曖昧さをそぎ落としていく。

 例)上から見れば円で、横から見れば長方形→円柱だとわかる

 文中に()や ─ ─ を挿入して単語の補足をしているのも印象的だった。英文でよく見るカンマに挟まれているやつだ!って(笑)

 そして例えがとても多岐にわたっていたことに、教養と呼べばいいのか守備範囲の広さ、引き出しの多さに感服した。正直教養が及ばすついていけないところもあり、調べながら読むのは楽しかった。

 レトリックが心地よい。タイトルにもなっている『もし僕らの言葉がウイスキーであったなら』を持ち出すまでの前書きが心地よい。うまく言葉を転がしたなという気もするのにそれよりも心地よさが勝ってしまう。そうか、これがプロか。心地よさのあまりため息が出てしまった箇所を引用して彼の印象を語るのは終わりにしよう。

もし僕らのことばがウィスキーであったなら、もちろん、これほど苦労することもなかったはずだ。僕は黙ってグラスを差し出し、あなたはそれを受け取って静かに喉に送り込む、それだけですんだはずだ。とてもシンプルで、とても親密で、とても正確だ。しかし残念ながら、僕らはことばがことばであり、ことばでしかない世界に住んでいる。僕らはすべてのものごとを、何かべつの素面のものに置き換えて語り、その限定性の中で生きていくしかない。でも例外的に、ほんのわずかな幸福な瞬間に、僕らのことばはほんとうにウィスキーになることがある。そして僕らは——少なくとも僕はということだけれど——いつもそのような瞬間を夢見て生きているのだ。もし僕らのことばがウィスキーであったなら、と。

 

 

 最後に、この本を通して自分には彼の旅先で出会った人たちがドラマチックだったのか、彼の目がドラマチックなものを映すのか判断できなかった。(どんな人にも歴史があり、紐解けば街行くおばあさんにもドラマがあることは理解している。それでも、インタビュー相手ならまだしもバーで一言も言葉を交わさず微笑んだだけのおじいさんにまで、旅先というアウェーで人間のパーソナリティーの一片に触れられるものなのかと、自分には見当もつかないのだ。)

 

 彼の目には何がどのように映っていて、どんな言葉で表現するのだろう。

 

 また、彼の本を読みたいと思った。