『水やりはいつも深夜だけど』 窪美澄

 どこかの家族の物語が5つ。

 少し見栄を張ったブログを更新している母親。

 妻の産後うつから少しぎくしゃくしているうえに義理の両親との将来的な同居が浮上していっぱいいっぱいになってしまう父親。

 妹が知的障害があったため自分の子供の少しゆっくりなところなどが不安で仕方ない母親。

 妻が子供のことを考える時間が増えるにつれ、自分への興味が減っていることを強く感じ若い女に揺れる男。

 父親の再婚でできた義理の母親と連れ子の2人との生活を始めた高校生。

 

 それぞれの家族がみな、どこかにじくじくとしたものを抱えていた。抱えたままでも”家族”は続いてゆく(表現として、表面的には「続いている」が実際は「破綻していないだけ」というのもある。この本では実際も「続いている」)。綻びの兆しの見える家族もある。

 しかし、いずれの家族もどこかで決壊する。その後でもう一度顔をつき合わせる。抱えていたじくじくしたものを晒すのだ。晒すことでようやく相手を知ることができる。分かり合える。

 そうすることで、あかるく、やわらかく、やさしく、少しの気持ちを取り戻したりして話は締めくくられた。

 

 一つ一つの家族が抱えているものは非常に現実味があり、ポロリと人にこぼせない重さがある。その重さが心の深いところまで沈んで届いてくれる。

 まるっきり問題が解決するわけではない。しかし、独りで抱えなくていい。力を抜いていい。分かり合える(分かろうとしてくれる)人がいる。それだけでいい。それが家族なんだと思わせてくれた。

 

 一つだけ。帯の言葉に反論しておきたい。

思い通りにならない毎日、言葉にできない本音。
それでも、一緒に歩んでいく――だって、家族だから。

 自分は自身の経験から「家族だから」という言葉を嫌う。その後に隠されている言葉はたいてい「仕方ない」だから。免罪符や諦めの理由にされるのが大嫌いだ。

 

 この本では「家族だから」一緒に歩んでいくのではない。

 もう一度向き合うから一緒に歩んでいけるのだ。

 

 その向き合うまっすぐな視線を「家族だから」という形式的な言葉で美化したり片づけたりするのはこの本の登場人物に失礼だと思ったことをここに残しておきたい。