どう言えばよかったのだろう

どう言えばよかったのだろう。

自分の中で整理がつかなくて、徒然なるままに書き散らす。

 

自宅から少し遠くにあるお寺で、舞を見る機会があった。

誰でも見れますよーというものにふらりと行ってきたのだ。

そこでの出来事である。

 

お寺のお堂に入るとすでに50人以上の人が座っていた。

皆、低めの椅子(一人掛け、三人掛け)に座っている。

お坊さんが「舞が始まるので前に詰めて大丈夫ですよ」と声をかけた。

皆、椅子を移動させ、前に詰めた。

あらかた移動が終わったころ、自分は邪魔にならぬよう後方へ。

ここからだ。

立ち見のつもりだったが、一番後方、壁寄りのところに三人掛けの椅子があり、そこに座っていたおばあさんに声をかけられた。

「ここどうぞ」

三人掛けの椅子は真ん中が空いていた。

せっかくのご厚意。断って近くに立っているのも気まずい。

「すみません、ありがとうございます」

真ん中に座る。

ここで思った。

この三人掛けの椅子だけ後方にあって、移動していないのはお年を召していて動かすのが大変なのでは?

この時、前方に詰めた椅子との間は空いていて、このままでも舞は見れて問題はなかった。

ご厚意のお礼というか、動かすなら自分がやりますよ!という気持ちだった。

「椅子、前に動かしましょうか?」

「いいえ、私はここでいいです。あなた、動かしたいんですか?」

「いえ、そういうわけでは」

ちょっと問い詰められるような口調にびびった。

「あなたが前にやりたいんだったらいいですよ、私下りて横に座りますから」

おばあさんのこと責めてない責めてない。な、なぜ怒り気味?焦った。

「ああああ(動揺)、大丈夫です。全然大丈夫です」

 

しばらくすると立ち見の人が増え、前方にある椅子のすぐ後ろにも人が増えてきた。

状況が変わった。

左隣のおばあさんとは逆、自分の右隣に座っている方も頭を揺らして見える場所を探している。

その方に話しかけた。

「人増えてきましたね」

「そうですねぇ、けっこう…」

変わらず見える場所を探している。

これではもっと人が増えて見えなくなるだろう。自分は立って見れるがおばあさんにはきつかろう。

再度おばあさんに声をかけた。

「椅子、前に持っていきましょうか?」

「いや、いいです。あなた、前で見たいなら私どきますから」

な、なぜそんなに怒り気味?

自分は怒る人が極端に怖いのでめちゃくちゃびびっている。

後から来ておいて、席を勧めてくれた人を下ろして椅子を動かすなんてとんでもない。

「だ、大丈夫です」

「いいですよ。あなた、動かしたいんでしょう?」

口調が強い。こ、こわい。

「見、見えにくく…」

見かねた右隣の人が間に入ってくれる。

「人が増えてきたので、見えなくなるので動かしましょうか?という提案をしてくださっているんですよ」

そ、そうなんです。

「そ、そうなんです」

「いいって言ってるのに何度も言ってきてなんなんですか。あなたが動かしたいんでしょう」

「いえ、すみませんでした」

──────気まずい空間。

おばあさんは一人で文句を言いながら椅子から下りて横に座った。

も、申し訳ない……。でもこれ以上刺激しない方がいいな……。

 

そののち、あとからやってきた方がつらそうに腰に手を当てていたので、これ幸いと席を譲るために席を立った。

 

なんと言えばよかったのだろう。

「人が増えてきたので」は絶対付け加えた方がよかったな。

もしかして目的が見ることじゃなくて、休憩だから動く必要がないってことか!?(閃き)

 

結局、左隣のおばあさんも見えなかったようで、舞が始まってちょっとすると立って前方に移動していった。

だから言ったじゃないか、と思った自分がいてちょっと嫌だった。

 

 

ない引き出しからとりあえず出してみる。

・とりあえず、怖かったのでめっちゃ陽気な関西人

「ちゃうのちゃうの、怒らんでー!心遣いで言ったつもりなんよ」

・雑魚っぽい

「自分たちも見えやすいですし、立っている人も気遣って前空けたりとか気づかなくて前遮られちゃいますし、動きませんか?」

 

 

 

 

こういう時に使うものか!?と、AIを利用。

個人的にAIがなかなかに好きではないのだが、今後のために意見を求めた。

まずはおばあさんがどう考えていたのかが出てきた。

怖い、なんでそんな怒るの?と思っておばあさんの思考まで考えてはいなかった。反省だ。

以下、抜粋。

おばあさん:
「席を譲ってあげたのに、さらに何か求められている?」
「自分の居場所を動かされる?」という警戒

正直に言うと、今回こじれた原因はこれです:

👉 2回目に同じ提案をしたこと

1回目で相手が「いい」と言った時点で、その人の中ではもう結論が出ています。
そこにもう一度来ると、

・「否定されたのに押してくる」

・「自分の判断を尊重されてない」

と感じる人もいます(特に年配の方に多いです)。

それでも今回のおばあさんタイプだと、
どう言ってもピリッとした反応になる可能性はあります。

・「譲った側」という意識が強い

・自分のペースを崩されるのが嫌

・“気遣い”を“干渉”に感じやすい

こういう人は一定数います。

↑「譲った側」という意識が強い

というのが謎で追加で質問。

あなたの感覚では
👉「空いてる席をすすめただけ」
ですよね。すごく自然です。

でもおばあさん側の感覚だと、おそらくこうです:

👉「自分の席に入れてあげた(=世話をしてあげた)」
👉「自分の“領域”に招いた」

特に年配の方だと、

・「自分が管理してる席」

・「自分が許可して座らせた」

という意識が強くなりやすいです。

マジか…。完全にわかり合えない考えが出てきた。

でもそうか、そう考える人がいるのか。

正直、今度から座らないでおこうと思った。

こういう考え、というか完全に違う思考回路が働く人と関わると何が原因でキレられるかわからない。極論のようだが経験として、もめるとかじゃなくてキレられることの方が多いので心底怖い。

消去的だが、処世術だ。関わらなければいけない場面や人ならばいざ知らず、再び会うことのない人とならそうやっていこう。うんそうしよう。

きっと、いつかうまくやれる日が来るかもしれない。めっちゃ陽気な関西人でうまくやれるかもしれない。波風立てずスマートに言えるかもしれない。びびらないで言葉が足りなかったと謝ったりできるかもしれない。

だから、その時までの処世術だ

でも、失敗するとしても訓練だと思ってやった方がいいのかなぁ。

帰り道ずっと考えていた。ダメージが30/100くらいなのに反芻しすぎて60くらいに感じた。この日の思い出はもっとあったはずなのにこの出来事でいっぱいになって悲しい。

 

 

話を戻そう。

なんと言えばよかったのかに対して、「前とは違う理由で言っている」と明確にすることをポイントとして

・「さっきと違って人が増えてきて、見えにくそうなので…よければ動かしますか?」

・「後ろに人が増えてきたので、もし見づらかったらお手伝いしますね」

・「無理にじゃないんですが、見えにくくなってきたので一応…」

と提案してきた。ほーーーんとそれ。ごもっともでございます。

もう一つ大事なコツ

2回目は“提案”を弱めるとさらに安全です。

・×「動かしましょうか?」(やる前提に近い)

・○「見えにくくないですか?」(相手に判断を委ねる)

 

もちろん、これらの提案が正解ではない。

起きなかった事象なので、もう、正解はわからない。

だが、次回以降、いつかうまくやれる日のためのストックが増えた。

それでいい。それでいいんだ。

そう自分に言い聞かせる。

 

 

今回の出来事は、自分の言葉足らずが落ち度だった。

同時に「こういうタイプの人もいる」と知れた経験でもある。

だからあまり引きずらなくて大丈夫。
こういった噛み合わなさは誰もが一度は通ることなのかもしれない。

 

 人を知ろうとする時、手がとても重要なパーツだと思う。
 なんというか、全部が手に出ると思っている。
 だからといって、シャーロック・ホームズのように「あなたは家庭教師をしていますね」といった観察眼があるわけではない。
 厚みや硬さ、シワ、まめ、そういったものに生き方が出ている気がするのだ。
 物理的な要因としての生き方、生活はもちろんのこと、あたたかみというかもっと抽象的な人間性というかなんとなくにじみ出るものだ。
 昔、おばあちゃんの料理がおいしいと言ったら「手から出汁が出てるからね」と返された。アレだ、出汁だ。

 

 この自分でも不思議な手への思い入れはおそらく、幼少期に読んだ「三つ目がとおる」という漫画に起因する。
 主人公の写楽が外国の遺跡を訪れる。そこにはおびただしい量の切り落とされた人間の手があった。遺跡の主?現地の男が現れて「これは人間の罪の象徴なのだ。サルから進化して人間になった時に手先が器用になった。だから悪事を働けるようになった。手が罪を生むのだ」といったことを話す。
 手についてなんという考えも持っていなかった当時、これは大きな出来事だった。
 人間を人間たらしめるものとして手という要素の重大さが確立されたのだろう。

 

 かなり親しくなった友人に限るが、手を貸してもらってぐにぐに触れることがある。

 指の腹や親指の付け根の膨らみ、水かきに至るまでつまんだり引っ張ったりする。反応はいらない。反応されるとちょっと邪魔に思う。

 初対面の人と握手をする時だって、本当ならばもっと揉んで手のひらを観察させてほしいと思っている。

 先ほど「厚みや硬さ、シワ、まめ、そういったものに生き方が出ている気がするのだ。」と述べたが、それらから何を読み取るでも読み取れるでもない。

 

 ただ、なんとなく出汁が出ている気がするのだ。

 

スモールステップの実例─資格勉強と求人検索─

資格勉強はやる気のなさ対策。

求人検索は精神的なハードルの高いもの対策。

 

資格勉強

 

 学生時代勉強は好きだった。

 社会人になると、確実なテキストを自分で見つけることから始めなければいけなかったり、期限や時間の区切りがないからメリハリがつかなかったり、一人で取り組む難しさであったり、知らない敵が多かった。

 また、トラウマともいえる経験と重なる学習範囲があり、嫌な記憶が再生されることも厳しいものだった。

 テキストがPDFなので、パソコンにテキストが入っている状態である。パソコンとノート、筆記用具で学習スタイルの完成。

 なお、勉強を始めれば集中できるので始めるまでの環境を整えるステップが多い。

 

  1. テキストを開く
  2. パソコンと勉強道具をテーブルの上に置く
  3. BGMを流す
  4. ノートを開く(あわよくば読む)
  5. テキストの1問だけ解く

 

 

1.テキストを開く

 開いたらすぐ閉じていい。今日のやる気測定だと捉える。

 

2.パソコンと勉強道具をテーブルの上に置く

 まずは物理的環境を整える。

 怠けてなかなか始めない人は形から始めるのがかなり効く。

 

3.BGMを流す

 これを聞いたらやるぞ!という気合の入る曲の再生リストを作っていた。空間を整えると言ってもいいかもしれない。

 周囲を、環境を、勉強するぞ!という空間に仕上げていく。

 ちなみに、自分はすべてサンボマスターサンボマスターはいいぞ。心のど真ん中に響く。

 

4.ノートを開く(あわよくば読む)

 開いたらすぐ閉じていい。 

 あくまで読むのは”あわよくば”。ぬるっと読み始めることができる日もあれば、すぐ閉じて終わりの日もある。ノートは書いてある最後のページと見つけやすく自分の書いた文字だから記憶をさかのぼりやすい。

 閉じるのであればBGMを停止する。だらだら流しっぱなしはNG。BGMと勉強は同時だと脳に刷り込むと、項目の2.3.4が一気に進むようになる。

 ノートでなく、計算用紙でもいい。

 

5.1問だけ解く

 気分じゃなくてもちょっとやっておく。

 気分じゃなくても1問解くと「ああ、やる気なくても自分はやれる人間なんだな」と自分に覚えさせることができる。

 面倒でもやれる。やる気なくてもやれる。逃げない自分だと体に覚えさせる。

 

※集中力が切れた時

 理解できない部分やトラウマを想起させる部分にぶつかったときにすぐ集中力が切れてしまうことが多かった。

 理解できない部分に関しては、一回ミニゲーム(パソコンならではだなと今思う)をして「わからない、難しい、いやだ」という気持ちを薄れさせることが効果的だった。

ミニゲームに集中するとそういったマイナスな感情がどこかへ行く。

 この時、1回だけ、または10分だけと制限をつけることで脱線し続けることが防げる。

 

 さらに、理解できずにこんがらがってしまった場合は解説を読んで「こういうことが言いたいらしい」「まぁ、こういう流れらしい」と思う。

 完全に理解できなくともなんとなく読んで、きっぱり明日に持ち越すことも有効だった。

 初見では抵抗感があっても二回目となると「ああ、こういうことが言いたいんだっけ「こういう流れにしたいんだよな」と抵抗感が薄れたり、全体像がなんとなくわかっているので着手している部分が客観的に見えた。新しい用語が多い時も使える。

 

 トラウマを想起させる部分については、すべての最優先事項が楽しい気持ちになることに切り替わる。

 すぐに別の作業に取り掛かった。「あああああああ」と声に出して記憶の再生は阻み、小説や漫画を読んだ。繰り返すが、最優先事項は楽しい気持ちになることである。ミニゲームのようにいったん気持ちを切り替えるような簡単なものではいけない。没入できるようなものがいい。「楽しい」は摂取するのだ。

 

※毎回、勉強のラストにどこから始めるか決めておくとスムーズ。

 復習だったり、次の章だったり何をするか決めておくと次のステップが簡単になる。

 

※追記

 部屋と画面を思いっきり明るくすると、集中しやすかった。

 

求人検索

 

 また、求人検索も難航した。前職のブラック企業の傷はあまりに深く、求人検索すると動悸が激しくなり呼吸が浅くなるレベルからのスタートだった。

 今思えば完全に休むべき期間だったと苦笑いしてしまう。

 けれども、完全なる毛嫌いから少しずつ慣らしていく必要があった。怖いものから怖くないものに変えていきたかった。

 

  1. ハローワークのページを開く
  2. ハローワークでログインする
  3. 検索ボタンをクリックする(あわよくば見る)
  4. 気になる求人を開く
  5. お気に入り登録
  6. ハローワークに相談へ)

 

 

1.ハローワークのページを開く

 一番のポイントは寝起きにすることである。

 寝ぼけてよくわからないうちに、「嫌だな、怖いな」と思う暇がないうちに、とりあえずブックマークからクリックしてしまう。

 そして、ページが開かれる前に閉じる!

 中身が何もないと思われるかもしれないが、これは非常に効果が大きかった。

 クリックできた。

 関わった。

 怖いものに立ち向かえた。

 これは、震えるほどに、時には涙が出るほどに大きなことだった。

 実際、初期はこれだけで心臓がバクバク言った。自分は立ち向かうことができたという達成感で。

 一番長かったのがこの期間。自分は「ひゃ~!クリックした、クリックしたよぉぉ」と慌てて閉じていました。いて閉じるだけ。

 今思えば、怖いものに関わることで少しずつ筋肉がついていったような感覚。

 

2.ハローワークでログインする

 絶対にパスワードを保存しておくこと。怖いもののハードルはガンガン下げていく。

 

3.検索ボタンをクリックする(あわよくば見る)

 クリックするだけ!

 この”あわよくば”というのはかなり重要。検索ボタンを押すことと検索結果を見ることは別です!見なくていい。

 初期は、よさそうな求人が見つかれば「早く応募しないと他の人で決まっちゃうかも」と焦り、よさそうな求人がなければ「はああああ」とため息。

 応募する気なく検索するのがいい。

 

4.気になる求人を開く

 ちょっとよさそうなのを見つけたら快挙。求人を開いて読んで内容までよさそうだったらさらに嬉しい。

 とにかく、よさそうな求人があるんだと自分に経験させること。

 ブラック企業で求人情報を信じられなくなった自分には必要だった。

 ずっと「条件はこう書いてあるけど本当は嘘なんだ」「自分なんかにはこんな高い給与(相場より少し低いくらい)合わない」とか思っていたけど、それも少しずつ薄れていった。

 

5.お気に入り登録

 自分が応募してもいいかも!と思える求人を見つけられたことに万歳。本当に。

 お気に入り登録に慣れるまでは「ついに見つかった!」とハイになるので、焦らないように。たくさん見て麻痺して比較的マシだから、とお気に入り登録していたりもする。ここでこの日の活動は終了して盛大に自分をねぎらうのがおすすめ。

 

6.(ハローワークに相談へ)

 後日お気に入り登録した求人を何回か見直して、気力があったらハローワークに相談へ。

 相談に行ったという事実が大事。

 前項のお気に入り登録までは自宅でできることだけど、ハローワークに行くのは外に出て直接人と関わることだ。ハードルの桁が違う。「ちょっとよさそうな求人を見つけた。取り組んでいる証拠だ、褒めてほしい」という気持ちで行く。

 自分は「焦らせないでメンタルフォロー多めでお願いします」と相談の冒頭で告げていた。

 ここで、挫けたり頑張れなそうと思えば応募しない。

 せっかくここまで頑張ったのにとか思う必要はない。

 

 

 また、土日は転職活動を一切しないというルールを決めてから生きやすくなった。

 「しなければいけない」という呪縛から解放されることはこんなにも休まるのかと感動した。出掛けたり楽しんだりすることを自分に許せるのは大事。

 

 

 

 資格勉強と求人検索、共通しているのが三つ。

 

 まず、関わること。その深さは無問題。

 関わって初めて、今日の調子が分かる。今日は全然立ち向かえないとか、今日はそんな頑張れないけどボチボチやってみるかとか、ガンガンやるぜとか。

 

 次に、今日のノルマを決めないこと。

 「ここまでできたらいい」は「ここまでできなければだめ」になってしまう。

 関わった時点で100点満点。

 前日できなかった分の持ち越しも絶対ダメ。

 

 そして、毎日やらなくていい。

 資格勉強であれば週に2,3回のことも多いし、土日やらないので多くて5回。

 求人検索は週に1回月曜日に”やるかどうか決める”。無理そうならやらない。

 

「夜と霧」のスクラップブック

夜と霧 新版


 ヴィクトール・フランクルの名著「夜と霧」を読んだ。

 この本は第二次世界大戦時に強制収容所に送り込まれた一人の精神科医が、収容前のショック、収容所生活、収容所から解放されて、の三段階に分けて冷静に心理状態を分析したものである。

 

 感想を書こうと思っていたのだが、どうしても何度でも読み返すべきの一言に収束してしまう。その時々の自分で、そのままの文脈で味わうのがいい。これは、エーリッヒ・フロムの「愛するということ」にも同じことが言える感覚である。

 

 なので、大胆にもスクラップブックとして断片的に記録することにした。将来の自分がこの記事を読み、感じ入った時、その時に再びこの本を手に取ってほしい。この記事を求める時、この本を求める時、あなたの必要なものが、この中にあるから。

 (スクラップブックと言いながら長々と書き出したのは、優柔不断さと、今はピンと来なくとも将来の自分に響くという根拠なき確証故である。ここまで端的に切り取ることのできなかったのは前述の「愛するということ」以来である。)

 

 ユーモアについて。

 ユーモアとは自分を見失わないための魂の武器だ。ユーモアとは、知られているように、ほんの数秒間でも周囲から距離を取り状況に打ちひしがれないために人間という存在に備わっているなにかなのだ。毎日義務として最低一つは笑い話を作ろう。それもいつか解放され、ふるさとに帰ってから起こるかもしれないことを想定して笑い話を作ろう。

 

ユーモアへの意志、ものごとをなんとか洒落のめそうとする試みは、いわばまやかしだ。だとしても、それは生きるためのまやかしだ。生きるためにはこのような姿勢もありうるのだ。

 

 終わりが不確定であることの苦しさ。

 (中略)不確定性が終わり、終わりが不確定になる。こんなありように終わりはあるのか、あるとしたらそれはいつか、見極めがつかなくなるのだ。
 ラテン語の「フィニス(finis)」には、よく知られているように、ふたつの意味がある。終わり、そして、目的だ。(暫定的な)ありようがいつ終わるか見通しのつかない人間は、目的をもって生きることができない。ふつうのありようの人間のように、未来を見すえて存在することができないのだ。そのため、内面生活はその構造からがらりと様変わりしてしまう。精神の崩壊現象が始まるのだ。これは、別の人生の諸相においてもすでにおなじみで、似たような心理状況は、例えば失業などでも起こりうる。

 

 模範について。

毅然とした、見ているだけでも勇気づけられる存在。存在、それも模範的存在の直接の影響は、言葉よりも大きいものだ。

 

 詩人の言葉。

あなたが経験したことは、この世のどんな力も奪えない

 

 自身を犠牲と定めること。

苦しむことも死ぬことも意味のないものではなく、犠牲としてのこよなく深い意味に満たされていた。意味もなく苦しんだり死んだりすることを望まなかった。

 

 未来に目的を持つこと。

 強制収容所の人間を精神的に奮い立たせるには、まず未来に目的をもたせなければならなかった。被収容者を対象とした心理療法や精神衛生の治療の試みがしたがうべきは、ニーチェの的を得た格言だろう。
「なぜ生きるかを知っている者は、どのように生きることにも耐える」
 したがって被収容者には、彼らが生きる「なぜ」を、生きる目的を、ことあるごとに意識させ、現在のありようの悲惨な「どのように」に、つまり収容所生活のおぞましさに精神的に耐え、抵抗できるようにしてやらねばならない。

 

 生きる意味。

生きる意味を問う
 ここで必要なのは、生きる意味についての問いを百八十度方向転換することだ。わたしたちが生きることからなにを期待するかではなく、むしろひたすら、生きることがわたしたちからなにを期待しているかが問題なのだ、ということを学び、絶望している人間に伝えねばならない。哲学用語を使えば、コペルニクス的転回が必要なのであり、もういいかげん、生きることの意味を問うことをやめ、わたしたち自身が問いの前に立っていることを思い知るべきなのだ。生きることは日々、そして時々刻々、問いかけてくる。わたしたちはその問いに答えを迫られている考え込んだり言辞を弄することによってではなく、ひとえに行動によって、適切な態度によって、正しい答えは出される。生きることはつまり、生きることの問いに正しく答える義務、生きることが各人に課す課題を果たす義務、時々刻々の要請を充たす義務を引き受けることにほかならない。
 この要請と存在することの意味は、人により、また瞬間ごとに変化する。したがって、生きる意味を一般論で語ることはできないし、この意味への問いに一般論で答えることもできない。ここにいう生きることとはけっして漠然としたなにかではなく、常に具体的になにかであって、したがって生きることがわたしたちに向けてくる要請も、とことん具体的である。この具体性が、ひとりひとりにたったの一度、他に類を見ない人それぞれの運命をもたらすのだ。だれも、そしてどんな運命も比類ない。どんな状況も二度と繰り返されない。そしてそれぞれの状況ごとに、人間は異なる対応を迫られる。具体的な状況は、あるときは運命をみずから進んで切り拓くことを求め、あるときは人生を味わいながら真価を発揮する機会をあたえ、またあるときは徐々に運命に甘んじることを求める。だがすべての状況はたったの一度、ふたつとないしかたで現象するのであり、そのたびに問いにたいするたったひとつの、ふたつとない正しい「答え」だけを受け入れる。そしてその答えは、具体的な状況にすでに用意されているのだ。
 具体的な運命が人間を苦しめるなら、人はこの苦しみを責務と、たった一度だけ課される責務としなければならないだろう。人間は苦しみと向き合い、この苦しみに満ちた運命とともに全宇宙にたった一度、そしてふたつとないあり方で存在しているのだという意識にまで到達しなければならない。だれもその人から苦しみを取り除くことはできない。だれもその人の身代わりになって苦しみを引きうけることに、ふたつとないなにかをなしとげるたった一度の可能性はあるのだ。
 強制収容所にいたわたしたちにとって、こうしたすべてはけっして現実離れした思弁はなかった。わたしたちにとってこのように考えることは、たったひとつ残された頼みの綱だった。それは、生き延びる見込みなど皆無のときにわたしたちを絶望から踏みとどまらせる、唯一の考えだったのだ。わたしたちは生きる意味というような素朴な問題からすでに遠く、なにか創造的なことをしてなんらかの目的を実現させようなどとは一切考えていなかった。わたしたちにとって生きる意味とは、死もまた含む全体としての生きることの意味であって、「生きること」の意味だけに限定されない、苦しむことと死ぬことの意味にも裏付けされた、総体的な生きることの意味だった。この意味を求めて、わたしたちはもがいていた。

 

 生きる目的を自覚できた成功例。

 自分が世界に期待するのではなく、世界が自分に期待すること。

「生きていることにもうなんにも期待がもてない」と、前に挙げた典型的ないい方をしたのだ。しかしこのふたりには、生きることは彼らからなにかを期待している、生きていれば、未来に彼らを待っているなにかがある、ということを伝えることに成功した。事実ひとりには父親の帰りを待つ、目に入れても痛くないほど愛している子供がいた。もうひとりを待っていたのは、人ではなく仕事だった。彼は研究者で、あるテーマの本を数巻上梓していたが、まだ完結していなかった。この仕事が彼を待ちわびていたのだ。彼はこの仕事にとって余人には代えがたい存在だった。先のひとりが子供の愛にとってかけがえがないのと同じように、彼もまたかけがえがなかった。ひとりひとりの人間を特徴づけ、ひとつひとつの存在に意味をあたえる一回性と唯一性は、仕事や創造だけでなく、他の人やその愛にも言えるのだ。
 このひとりひとりの人間にそなわっているかけがえのなさは、意識されたとたん、人間が生きるということ、生きつづけるということにたいして担っている責任の重さを、そっくりと、まざまざと気づかせる。自分を待っている仕事や愛する人間にたいする責任を自覚した人間は、生きることから降りられない。まさに、自分が「なぜ」存在するかを知っているので、ほとんどあらゆる「どのように」にも耐えられるのだ。

 

 解放直後の虚脱感。

 「自由になったのだ」、と何度も自分に言い聞かせ、頭の中で繰り返しなぞる。だが、おいそれと腑に落ちない。自由という言葉は、何年ものあいだ、憧れの夢のなかですっかり手垢がつき、概念として色あせてしまっていた。
わたしたちは、まさにうれしいとはどういうことか、忘れていた。それは、もう学び直さなければならないなにかになってしまっていた。

 

 苦しみを語ることの必要性。

 彼はまず食べ、コーヒーを飲んでから、ようやく舌が滑らかになり、そして語りはじめるのだった。何時間もかかる、彼の物語を。何年ものあいだ、重くのしかかっていた抑圧から解放されたのだ。彼が語るようすは、まるで心理的強迫であるかのようだった。それほどに、彼は語らずにはいられないのであり、話さずにはいられないのだ(たとえ短いあいだでもきびしい重圧のもとにあった人、たとえば秘密国家警察の尋問にあった人にも同じようなことが観察されることが知られている)。 数日が経過し、さらに何日も過ぎて、舌がほぐれるだけでなく、内面でなにかが起こる。突然、それまで感情を堰き止めていた奇妙な柵を突き破って、感情がほとばしるのだ。 

 

 物理的な解放後の精神的な解放。

 どれほど長いことその場にひざまずいていたのか、何度この言葉を繰り返したか、もう憶えてはいない⋯⋯だがこの日この時、あなたの新しい人生は始まったのだ、ということだけは確かだ。そして一歩また一歩と、ほかでもないこの新しい人生に、あなたは踏みこんでいく。あなたはふたたび人間になったのだ。

 

 

 先に述べたように、強制収容所の人間を精神的にしっかりさせるためには、未来の目的を つめさせること、つまり、人生が自分を待っている、だれかが自分を待っていると、つねに思い出させることが重要だった。ところがどうだ。人によっては、自分を待つ者はもうひとりも いないことを思い知らなければならなかったのだ⋯⋯。
 収容所で唯一の心の支えにしていた愛する人がもういない人間は哀れだ。夢にみて憧れの涙をさんざん流したあの瞬間が今や現実になったのに、思い描いていたのとは違っていた、まるで違っていた人間は哀れだ。町の中心部から路面電車に乗り、何年も心のなかで、心のなかでのみ見つめていたあの家に向かい、呼び鈴のボタンを押す。数え切れないほどの夢のなかで願いつづけた、まさにそのとおりだ⋯⋯しかし、ドアを開けてくれるはずの人は開けてくれない。その人は、もう二度とドアを開けない⋯⋯。 収容所にいたすべての人びとは、わたしたちが苦しんだことを帳消しにするような幸せはこの世にはないことを知っていたし、またそんなことをこもごもに言いあったものだ。わたしたちは、幸せなど意に介さなかった。わたしたちを支え、わたしたちの苦悩と犠牲と死に意味をあたえることができるのは、幸せではなかった。にもかかわらず、不幸せへの心構えはほとんどできていなかった。少なからぬ数の解放された人びとが、新たに手に入れた自由のなかで運命から手渡された失意は、のりこえることがきわめて困難な体験であって、精神医学の見地からも、これを克服するのは容易なことではない。そうは言っても、精神医をめげさせることはできない。その反対に、奮い立たせる。ここには使命感を呼び覚ますものがある。

 

犠牲について

いずれにしても、そのことに意味はあるのだ、と。犠牲の本質は、政治的理念のための自己犠牲であれ、他者のための自己犠牲であれ、この空しい世界では、一見なにももたらさないという前握のもとになされるところにある、と。

(中略)

自分が苦しみ、死ぬなら、代わりに愛する人間には苦しみに満ち死をまぬがれさせてほしい、と願ったのだ。この男にとって、苦しむことも死ぬことも意味のないものではなく犠牲としてのこよなく深い意味に満たされていた。

彼は意味もなく苦しんだり死んだりすることを望まなかった。わたしたちもひとり残らず、意味なく苦しみ、死ぬことは欲しない。この究極の意味をここ、この居住棟で、今、実際には見込みなどまるでない状況で、わたしたちが生きることにあたえるためにこそ、わたしはこうして言葉をしぼりだしているのだ、とわたしは語り納めた。

 

 

 

「図書館」で短歌

ここでだけ僕はまともな人になる本を読んだらひとになる

図書館は資料と場所を提供す利用者の名札を僕に提供す

パラパラと最後のページにひも栞やさしく閉じたていねいな人

挟まれた虫の死骸も愛おしき読まれた時間が再び開く

奥付に水ぬれ跡の印あり雨の日を共にでかけた文庫本

第5巻誰かの跡を追う図書館で早く読んでよ第6巻

空港のところで私泣きました感想託し返却してる

4段目あなたと目線が交差しない向こうのあなたは背表紙ばかり

負け知らず勝とうとしなくなったとき男の背中広くやさしく

植木鉢床のボルトのそばにある緑のやさしさ誰だ好きだぞ

4文字で公演中止8文字でこうえんちゅうし手帳に黒字

おなかには重い責任隣にはいないあいつがあたしを殺す

産まなけれそれより先は言えなくて泣かないでねと子どもに私に

ペン回し上手い人だけ許される自習室にはノックの音だけ

日当たりのいい席どこにありますか本を片手にまぶたの裏へ

あちこちに置かれた椅子にひとつだけ私の形に沈んだへこみ

雨の日の机と椅子は自由だな本は濡れたら終わりだもんな

旅をする図書館帰り深夜帯冒険譚を語る本たち

本を閉じタイムリープをしているなすっかり暗くなった夕暮れ

頑張りすぎてしまう心理 加藤諦三

以下、切り抜き。

まったくの自分用メモである。

 

  • 常に具体的な利益がなければ無駄に感じてイライラして消耗する。
  • 好きなことをして楽しいという体験をすることで憎しみは消える。
  • 楽しい体験とは過去の恐怖を打ち消す体験である。楽しいことがあれば「そんなこと」はどうでもいいことになってくる。
  • 楽しいことが体験できる能力は生命力である。鬱病者が楽しいことがないのは、生きるエネルギーが衰えているからである。
  • 楽しいことを知っている人は自分のある人なのである。
  • スケジュールは途中で変えてもいいのである。
  • 自分にふさわしい目的を持てるか持てないかが、その人の心理的健康のバロメーターである。
  • 続けるには楽しむことがポイントなのである。
  • 現実の自分から出発しない。自分は「こうあるべきだ」とか「自分はこうあってほしい」という願いから出発する。だから生きるのが辛くなる。
  • 「実際の自分」に対する現実感がない。彼にとって現実感があるのは「こうありたい」という自分の願いなのである。
  • 自分が何をコントロールでき、何をコントロールできないかを判断
  • 「積み上げる」とか「紡ぐ」とか「築く」ということは、これまたエネルギーのある人にしかできないことである。心理的に健康な人ができる生き方なのである。
  • 無視されて生きてきているから、無視されて傷つくことの恐怖を体験している。
  • タイプA的性格の人は無視されたくないのである。愛されて育った人は大人になれば自身が身についているから無視されてもさほど傷つかない。しかし小さい頃無視されて育った人は、大人になっても自信がないから無視されれば傷つく。無視されることが怖い。誰もありのままの自分に好意的な関心を払ってくれないと骨の髄まで思い知らされている。そこで業績を上げるしかないのである。
  • タイプA的性格(注釈:常に緊張しているとか)の人の心理的特徴は基本的不安である。
  • 不安から目を背けさせてくれるのが、「時間に追われながらの多方面にわたる活動」とか「持続的な強い欲求」である。なぜこうなってしまうのか。それは何よりタイプA的性格の人には本当に好きなことがないからである。本当に欲しいものがない。本当に好きなことがあればそれを基準にして物事を考える。
  • 本当に欲しいものが取捨選択の基準になる。
  • 自分自身の感覚を回復すること。
  • 理想の環境に生まれ、そこで生きることが生きることではない。心身共に背負いきれないほどの問題を抱えて、それを一つ一つ解決していくことが生きるこということなのである。
  • とにかく心地よいことを体験すること。心地よいことを体験することは、自分にとって仕事をするよりも将来のためになると信じることが必要である。
  • ストレスホルモンであるカテコールアミンの調節をする脳内のローカスセルレウスのような箇所が調節機能を失っているのだろうし、下垂体も完全には機能していないで、過敏な反応を促すホルモンのCRFを放出しているのだろう。
  • トラウマは扁桃核に引き金的な記憶を残す、ダニエル・ゴールマン
  • 苦しくてつまらない場所を「ここが面白い場所だ、幸せな場所だ」と思わなければいけなかった。
  • 健康な自分を想像できるかできないかの方が栄養剤を飲むか飲まないかよりも健康に大きな影響を持つ。
  • タイプA的性格の人はどうすればよいのか。まず「よく今日まで私は生きてこられた」と自分に感心することである。タイプA的性格の人は生き方を何も知らないのである。「よくここまで生きてきた」としか言いようがない。
  • その日することを五つくらいあげる。それが出来たら一つずつ消していく。半分出来たら「これで十分」と思うことである。それが日常生活である。
  • 休んでいて「こんなことをしてはいられない」と思ったら、「自分の今の人生はもう休んでもよいほどすでに頑張った」と思うことである。今現役で頑張っている人と同じように頑張らなくてもよい。現役で活躍している人と張り合わなくてもよい。
  • 何が間違いかは、それをどのような時間的展望で見るかによって違う。今までの努力を間違いと受け入れることと、それを否定することとは違う。今までの間違った努力の体験があるからこそ、これからの正しい努力が実るのである。
  • 今までの努力は自己否定の努力である。無視された恨みがあったり、見捨てられるのが怖かったり、軽蔑されるのが怖かったりするから努力した。あなたは自己実現のための努力をしていない。これからは自己実現のための努力をすることである。自己実現のための努力をしないとあなたは死ぬまで満足することはない。
  • 努力を意味あるものにする条件とは心理的な安定である。努力は心理的成長を伴って意味を持ってくるし、効果もある。心理的成長をしていない人の努力は報われない。
  • 人としての根本は心の触れ合いである。
  • 根本の二つのこと。第一にあなたは自分の人生の本当の目的が分かっていない。自分が本当に欲しいものが分かっていない。なにが本当に楽しいかもわかっていない。目的地が分からなければ辿りつけない。第二に人と気持ちがかかわっていない。人に気を遣いながらも人とうまくいかない。
  • タイプA的性格の人は、のんびりしているときに「こんなことをしていられない」と心の中が焦ってくる。そうしたら「今の自分にはこうしていることの方が、無理に頑張って仕事をしているよりも大切なのだ」と言い聞かせることである。そう言い聞かせたからと言って、すぐに気持ちが落ち着くわけではないだろう。しかしとにかくそう言い聞かせて、騒ぐ気持ちを静める努力をすることが大切である。
  • 自己実現のための努力をするためには四つのことに注意することである。まず第一に、あなたの価値観を少しずつでも変えることである。これからはとにかく自分が「好きなところ」に行くように心がけることである。少しでも質を重要視する習慣を身につけることである。価値観を少しずつでも変えていけば、次第に自分が本当に欲しいものが何かわかってくる。第二には時機を待つことである。自分に実力がついてそのポストにふさわしくなるまで。三つ目には人を活用することである。タイプA的性格の人は自分を活用していないから、人を活用することも知らない。「人を活用すること」と「人を利用すること」は違う。人を利用するのはヒステリー性格の人で、自分で努力しない。人を活用するということは、その人の能力を発揮させる場所を作ることである。一緒に仕事をしてお互いに得意な能力を出し合う。タイプA的性格の人は自分が誰と組めばよいかが分かっていない。自分が得意なところも足りないところもわかっていないからである。
  • 自己実現のための努力をするために四つ目に大切なことはコミュニケーションである。タイプA的性格の人は自分を凄く見せようとする気持ちが強すぎる。そこで他人とうまくコミュニケーションできない。自己実現をして自分の目的を達成するために大切なことは、自分を凄い人物に見せようとする努力ではなく、相手とコミュニケーションしようとする努力だと気づくことである。
  • 憎しみの環境では人は輝かない。人は関係の中で輝く。関係とは、深い愛とか、信頼のことである。自分を磨くということは、愛する心を育むということでもある。

親との関わりが重荷に

 Askから。

 

「久しぶりにaskを開きました。 話を聞いてください。 現在、恋人はいないのですが将来的にはパートナーか結婚したいなと思っています。 都内に部屋を借りているのですかが、親が寂しがるため、2拠点生活をしています。 パートナーができたとしても 別居婚週末婚もありだなと思っています。 ただ、自分が疲れそうです 実家にもなるべくいてあげたい、 いるのは嫌ではありません。 パートナーとの時間もほしい。 身体は一つしかありません 最近そんなことを考えると 滅入ってしまいます。 どうしたら気持ちや考えの整理がつくのか、これからどうするのがベストなのか分からず 書かせていただきました。」

 

 親御さんを大切になさってるのが伝わってきますが、今後パートナーができてもその生活を続けるのは難しいでしょうね…。本人も無理なのが分かっていて改善したいようです。

 以下、回答です。

 

 お久しぶりです。
 お話を聞いて、少し気になった点があります。「親が寂しがるため」「実家にもなるべくいてあげたい」という言葉です。

 

 親を大切にするのは大事けれど実家にいるのは嫌ではないけれど”けれど”、疲れてきているのが明らかにわかるんです。「(実家に)いるのは嫌ではありません」とわざわざ言わなければない状態まで来てるんです。”家族だから”と思うかもしれませんが、あなたは自分が思っている以上に”家族”に疲れてます。いつか爆発しそうなくらい疲れが蓄積されてます。それがすごく心配です。

 以前も質問をくださった方だと思うのでその内容も踏まえますが、①2拠点生活の疲れ②将来パートナーができた時の生活のハードさが分かっている③そういったことを考えると気が滅入る。そのうえ、「自分が疲れそうです」と、もうわかってるじゃないですか。

 なんで疲れるかというと、あなたが本当にしたいことではないからなんですよ。頻度や方法などが納得していないと言ってもいい。あなたは今、”親が寂しがらないようにするための人生”を送ってますよ。少し言葉がきついですけれど、親が寂しいのは親の問題です。子どもに寂しさを埋めてもらおうとするのは間違ってます。聞く限り…依存の域に入ってきてます。趣味で園芸を始めたり、フラダンス教室に行ったり、SNSで交流したり、今は手段がいくらでもあるんですよ。

 どう考えたって、親も、あなたも、”自分のしたいこと”を見つけて”自分のための人生”を送れるのが一番じゃないですか。

 ちょっと話がそれますが、名著を読みまして、母性愛(親からの愛)の一番最後にすることはその子から離れることだというのがあってとても胸に重く来たんですよ。自分の中に命を宿してまさに一心同体であった存在。生まれても、片時も目をそらせない、時に自分よりも優先してきた子供という存在。子供から離れることが母性愛の一番最後に行われるべきことで、一番難しいことだと……。反芻するたびに重みがあります。

 

 さ、話を戻しますね。

 対応として、あなたと親の”それぞれ”の時間を充実させることが最優先事項です(決して共有しないように)。すぐに2拠点生活をやめるなどという大きな変化は望まれないと推察するので、いくつか考えてみますね。

 あなたの時間の使い方は自分の趣味に使ったり友達とどこかに行ったり、自分が楽しむことでしょうか。これは考えやすそうです。

 親の時間の使い方は(本当は親が自分ですべきことですが)親の趣味の支援、初めての場所に一緒に行ってみる、などできますね。どハマリしなくても行動の選択肢として知っている、実際にしたことがある、というのは大きな経験です。

 そして、時間の使い方に付随して個人的に大事だと思うのが「自立するわ」とちょっとふざけ気味でもいいので少しずつ離れる宣言実践

 自分にも宣言するのが大事なんです。

 そして、実践して「大丈夫」「できる」と実感するのがもっと大事なんです。

 あなたの時間を、人生を、あなたのために使ってください。

 親に対する振る舞いが”優しさ”ではなく少しずつ”犠牲”になってますよ。「強めに言うじゃん……」と思いますよね(笑)

 ここで一つ安心してほしいのが、親と完全に離れてほしいと言ってるのではないんです。健全な関わりのためにまず個々で独立しようという方針なんです。(今の関わりのままだと共倒れコースになりそうです。)

 

 あなたという箱の中に重要なものが風船で存在してることをイメージしてください。

 仕事、趣味、友達、親、といろいろあると思います。今のあなたの状態は親という風船が大きくなりすぎてるんです。そうしたら自分を大切にできないですよ、余裕がないんですから。当然新しくパートナーという風船を入れるのはもっと難しいですよね。

(「親とパートナーだったら絶対パートナーを優先するに決まってるでしょ!どうしたって、親は先に死ぬのよ!パートナーはあなたと一緒に生きる人なんだからね!」と心の中の松嶋尚美さんが言ってる。めっちゃわかる。ホントそれ。)

 話は松嶋尚美さんから風船に戻りますね。親という膨らみすぎた風船を小さくすることは親を大切にしていないことにはならないです。風船の大きさはいつでもいくらでも変えられます。親が入院したら風船を大きくすればいいし退院したら小さくすればいい。大きくなりすぎて周りの風船を圧迫したらつらいよねってだけなんです。大丈夫、優先順位が下がっても大事であることに変わりはないですよ。(自分の場合、同窓会で会う友人とかそうですね。頻繁に連絡取ったりしないけど大事な存在です。)大切にする方法ってずっと一緒にいてあげることだけではないですよ。


 ”あなたのための人生”の中で親を大切にすることって、できますよ。