バラのマジック

 買物は必要なものを買うのであって欲しいものを買うのではない。

 そう思っていた(今も思ってる)のでおねだりをしたことが記憶にない。

 ダメですよと言われたわけではなくて単純に理解できない。

 だから、「なにか欲しいものは?」と聞かれてもすぐに思いつくものもなく「わからない「ないなぁ」としか言えない。

 

 ある日、中学生いや高校生だったろうか。母と買い物をしていて、マジックのタネが売られているのを見かけた。500円で。貫通するコインや水を入れてもこぼれない新聞紙などが並んでいた気がする。

 その中で自分の目を引いたのが、突然現れるバラ。オシャレにサッと差し出すバラ。

 気になる!でも500円ということはそこまで壮大ではないだろうと冷静な自分もいた。でも気になる!!

 買えばいいじゃん。でもいらないよ。じゃあやめれば。でも何が入ってるか気になる。そうだね。でも500円だよ、そんなたいしたことないって。

 そんなやり取りを数分していたら、母が買ってくれた。

 

 いらないものを買ったというドキドキ。

 何が入っているんだろうというワクワク。

 

 帰宅して早速開けました。

 もう、大爆笑。

 これ〜〜〜?という大爆笑。

 

 ネタバレは避けたいので何が入っていたかは言いません。

 いらないのに今も大切にしてます、そのバラ。

人はいつ許されるのか

 人はいつ許されるのか。

 最初に疑問を抱いたのは、さだまさしさんの「償い」という曲を聞いた時だ。

 

さだまさし 償い 歌詞 - 歌ネット

 

 曲の中では、交通事故で殺人を犯してしまった”ゆうちゃん”が、被害者の奥さんに毎月仕送りを送っている。そして7年目にして初めて手紙が来る。

ありがとうあなたの優しい気持ちはとてもよくわかりました

だからどうぞ送金はやめて下さいあなたの文字を見る度に

主人を思い出して辛いのですあなたの気持ちはわかるけど

それよりどうかもうあなたご自身の人生をもとに戻してあげて欲しい

 

 償いきれるはずもないがせめてもと毎月仕送りをしているゆうちゃん。

 手紙の中身はどうでもよく返事が来たことが何よりありがたかった。

 

 曲の中で、手紙を見せてもらった”僕”はこう続ける。

彼は許されたと思っていいのですか

来月も郵便局へ通うはずの

やさしい人を許してくれてありがとう

 

 社会的には刑罰を終えた段階で罪の償いは完了している(=許された)ことになるのだろう。しかしゆうちゃんは、7年目にようやく被害者遺族から許されたというのだ。

 

 自分は、この手紙から許されたと感じることができなかった。被害者の奥さんにとって痛ましい記憶を、ゆうちゃんがいつまでもいつまでも掘り返し続けてくるのが辛かったから、もうやめてほしい、解放してほしい、そういった気持ちしか読み取れなかった。

 ゆうちゃんの償いは、被害者の奥さんの苦痛だった。

 事故を忘れてへらへら生きていても腹が立つだろう。かと言って毎月詫び続けるのも苦痛になる。(月9ドラマ『GOOD LUCK!!』にも似た描写があった)

 

 償いとは何か。

 許されるとは何か。

 どうすれば許されるのか。

 

 抱えた疑問を、いつしか薄れていた。

 

 

 

 このことを約20年ぶりに思い出したのは、2020東京オリンピックの時だ。

 

 2021年。東京オリンピック開会式前日に、開閉会式の演出担当である小林賢太郎さんが解任された。彼は20年以上前のコントでナチスホロコーストユダヤ人大量虐殺)をネタにしたことがあったからだ。

www.yomiuri.co.jp

 

 はっきり言って、よろしくない。やってはいけないことの部類だ。

 

 しかしながらこの然るべき解任について、2点引っかかっていることがある。

 ひとつ、開会式の前日に解任したこと。

 仕事させるだけさせて名前は残させないという労働搾取。文句つけるなら事前に調べておけよ!バカ!

 オリンピック委員会の問題なので今回はこれ以上言及しない。バカ!

 ふたつ、彼はオリンピック以前に改心していたこと。

 「改心していた」と書くと非常に抽象的だけれど、彼はネタにおいてネガティブ要素で笑いを取らないようにしてきたのだ。本人のインタビュー記事をツイートしてくださった方がいたので、引用させていただいた。

 

 

 改心の結果であるその後のネタがどんなものであるか、YouTube動画に公式がたくさん上がっているので見てもらえたら嬉しい。(余談だが、ラーメンズの動画の収益はすべて赤十字に寄付される。)言葉やリズム遊び、激しい緩急、時には唸るほど計算されたネタは、シニカルであっても人を傷つけることがない。

 

 1998年。23年前。当時25歳。

www.chunichi.co.jp

 

 彼が許されるべき、という主張ではない。

 決して許してはいけない、という主張でもない。

 

 

 人生において

 一度も間違えたことのない聖人君子などいないだろう。

 読んでいるあなたも間違えたことがあるだろう。

 

 人はいつ許されるのか。

 どうすれば許されるのか。 

 反省していますと言えば許されるのか。

 その後の姿勢で許されるのか。

 

 

 7年。

 23年。

 

 いつまでも許されないのか。

 

 許されるとは何なのか。

 

 

 

 

 このことを思い出す日が、いずれまた来る。

断捨離という自傷行為

※間違った断捨離をしています。断捨離自体が自傷行為ではないです。

 

 長年住んでいた家から引っ越すこととなり、荷物の整理を始めた。

 引っ越しの理由について詳細は省くが決して後味のいいものではない。客観的に見て引っ越した方が絶対にいいと断言できるが、感情としては「もう引っ越さざるを得なかったが自分が引き金を引いてしまった……」というのが正直なところだ。

 

 そんなわけで断捨離をネガティブに始めた自分。

 着なくなった服。ボロボロの絵本。使わない高校の教科書。たまっていってしまうハンカチ。先生とのやり取りが楽しかった数学のプリント。愛おしくてたまらない体育祭ノート。

 たくさんのものを手放していく。

 楽しかったなぁ。愛おしいなぁ。愛おしいなぁ。そう思いながら、荷物を減らさなければいけないからという理由でどんどん捨てていった。

 ずっと、愛おしいなぁ、宝物の日々だったなぁ、と思いながら。

 

 全部持っていけるわけじゃない。

 荷物を減らすのはいいことだ。

 

 大切なものを捨てるのは苦しかった。それでも荷物を減らすことが最優先と自分に厳しく言い聞かせて捨てていた。断捨離のスローガンは「使わないものは捨てる」になっていた。

 思い出はとっておくタイプなので大好きな学校の先生からもらったお菓子の包装紙までとっておける。手放したが。

 

 あらかた8割は片付いた頃、心はズタズタだった。大切なものは使わないものばかりだった。

 何で使わないものばかり大切なんだろう。

 ひどく傷つきながらゴミのひもを縛った。未練がましく捨てる前に撮った写真もある。

 

 8割5分は片付いただろう。好きな漫画は心の整理がつかずにまだ捨てられない。趣味のものは段ボール一つにまとめたから見逃してくれ。そんな気持ちだった。

 使うもの=必要なものだけを残していくと無味乾燥の物しか残らない。

 

 ある日、ぼーっとするためにweb漫画を読んでいた。もう考えたくなかった。

 そんな中で、出合ったのがこちらだ。

 

 大切なものを次々に捨てていった。こんなに大切な素晴らしいものは私にふさわしくない。自分に過ぎたものだ。私はきっと持ち過ぎた。

 神様に返す。差し出さなければ──

 

 何時間もいくつも読んでいて、どの漫画だったか探し出せず引用元を紹介できないのが申し訳ない。上記の文章は自分のメモ書きで語尾など正しく引用できてはいないかもしれない。 


 精神的に病んでしまった主人公が次々と自分のものを捨てていくさまが自分と重なり、ここで初めて自分を客観視できた。「神様に返す」とまでは思っていないが「こんなに大切な素晴らしいものは私にふさわしくない。自分に過ぎたものだ。」という気持ちが共感できた。

 あきらかに自傷行為だった。セルフネグレクトだった。

 

 「使わないものは捨てる」をスローガンに自分で自分を傷つけていた。

 

 

 

 8割5分の片づけは終わっている。大切なものはあらかた捨てた後だ。もう手元にはない。

 それでも少しだけでも残った大切なものを持って引っ越し先に行こうと思う。

 自分を大事にすることの一つだと思うから。

『ヒロスエの思考地図 しあわせのかたち』広末涼子

 この本は彼女の選んだ哲学者と彼女の好きな尊敬する女性の言葉六十とともに、彼女の経験や思いが二、三ページにわたって記されている。

 

 自分の持つ広末涼子さんのイメージは、透明、軽やか、笑顔、明るい。パブリックイメージと大差ないだろう。彼女のエッセイはどんなに爽やかなんだろう、何を語るのだろう。そう思って手に取った。

 

 「はじめに」の一文目。本の中の広末涼子さんとのはじめまして。

私は、ポジティブ人間です。

 お、おぅ…。

 前述したイメージよりも、でーんとした強さを打ち出されて一瞬ひるんだ。そうか、こういう感じの人なのか。気を取り直して本を開くというのも初めての体験で、なるほど芸能人のエッセイを読むというのはこういうこともあるのかと楽しいはじまりだった。

 読んでいくうちに彼女の生来のポジティブさもあるが、本にあるような獲得してきた言葉や彼女の中で構築された思考回路、周りの人々との関わりの中で、彼女は意志をもってポジティブであり続けているのだと思った。

 

 彼女の選んだ言葉、その哲学者の幅広さも記録しておきたい。ニーチェゲーテといった誰もが名前を聞いたことのある人から、浅学な私の知る限り学問の一環でしか触れることのないヴァルター・ベンヤミンまで。彼女の”思考地図”の広さがうかがえる。

 

 文章のチャーミングさが非常に好きだ。いつもどこかに楽しさを見つけている、制服を着た少女のような軽やかさがある。孔子の言葉について述べた文章が特にユーモアにあふれていて思わず笑みがこぼれる。

子曰く、吾十有五にして学に志す、三十にして立つ、四十にして惑わず、五十にして天命を知る、六十にして耳順う、七十にして心の欲する所に従えども、矩を踰えず。

 彼女は、八十にして何と言うのだろうと考えるのだ。たしかに(笑) 人生八十年、それどころか百年とも言われる時代だ。孔子は八十歳を迎えることなく七十四歳で没するので本人さえも未知のもの。そこに目をつける彼女のユーモアが素敵だ。

 

 文章は、誰かへの小さなエール、感謝、尊敬、納得、自身の宣言、自身(もしくは未来への?)約束で結ばれている。

 だからだろうか。気持ちいい読後感で、唇を真横に引いて(なんなら口角を少し上げて)「うん」と頷きたくなる。そんな力を心のうちに芽生えさせてくれる。

 「おわりに」より以下の文章を引用してこの記事を終わりたい。軽やかで広く深く考えてることをあまり露わにしない彼女の、視野の広さの片鱗を知ることのできる一文だ。

 彼女の思考地図をもっと隅々まで見せてほしいと思わずにはいられない。そう言っても躱されてしまいそうで、彼女の深みにはまりそうだ。

 また"哲学者"というカテゴリーに囚われてしまうと、時代背景や男女の価値観などに大きく影響されてしまうことに気づき、"私の好きな女性"の言葉も一緒に入れさせていただいた次第です。



 

 

宝塚月組公演『グレート・ギャツビー』

 普段は宝塚の舞台(といっても円盤や配信での視聴がメイン)を観ても手書きの日記にメモする程度なのだけれど、あまりに自分の中に深く入ってきたのでブログに残しておく。

 

 

 まず、この作品『グレート・ギャツビー』はアメリカの作家F・スコット・フィッツジェラルドの小説「グレート・ギャツビー」を原作としている。

 

 大まかなあらすじは以下の通り。

 ※宝塚バージョンなので原作と異なるかもしれない。

 ※ネタバレ注意

 平凡タイプのニックロングアイランドに引っ越してきた。彼の家の隣は城のような豪邸で毎晩のように謎のパーティーが開かれている。

 家主の名前はジェイ・ギャツビー。ニックはギャツビーに誘われてパーティーに参加し、自分が湖を挟んでギャツビーの家の向かいに住んでいるデイジーの又いとこであることを話した。

 ギャツビーにとってこれは幸運だった。ギャツビーが長年思い続けている相手はデイジーだったのだ。

 戦時中にギャツビーとデイジーは恋に落ちるもギャツビーの生まれが、貴族であるデイジーにふさわしくないとデイジーの両親から仲を引き裂かれてしまう。その後デイジーは親の決めた相手トムと結婚しており赤ん坊もいる。

 ニックの計らいもあり二人の関係は再熱し、ついにデイジーを賭けてギャツビーとトムがゴルフで競うことになる。

 ギャツビーが勝利を収めたがトムがギャツビーの生まれや裏社会で生きてきたことなどを暴露する。デイジーは叫ぶようにトムを止める。そして「帰る」と言い出すがトムに「自分の家かギャツビーの家か?」と尋ねられて力なく自分の家に帰ることを選ぶ。感情的になったままギャツビーの車を運転して帰宅するデイジー

 その道中、人身事故を起こして人をひき殺してしまう。ギャツビーは彼女の罪を被り、被害者の夫の逆恨みで銃に打たれて死ぬ。

 ギャツビーの葬儀には、全ての真相を知るニック、新聞記事でギャツビーの死を知った父親、そして一瞬だけデイジーが現れただけだった。

 

 

 

 上記のあらすじを踏まえたうえで、いくつか感想を。

 一言で表すと、すべてが出揃った舞台だった。

 何もかもがこの舞台のために調整されて整えられてきたようだった。役者もタイミングも。スポーツ漫画で例えるならばインターハイ勝戦。宝塚をご存じの方には納得していただけるだろう、雪組の『ONCE UPON A TIME IN AMERICA(ワンス アポン ア タイム イン アメリカ)』のような、全てはここに帰着するため…みたいな、全てのゲージがマックスで迎えられた舞台だった。間違いなく月城かなとさんの代表作になる、というのが観たその日に分かる。

 ここからは雰囲気、ギャツビー、デイジーの3つに絞って述べていく。

 

・雰囲気

 雰囲気というのは非常に曖昧で、じんわりと漂ってきたり、なんとなく伝わってくるものだ。舞台の照明・セット・衣装・小道具、それだけでは作り物だとわかる。役者が演じていくうちに酒場のセットから酒場に変わっていくのだ。それなのに『グレート・ギャツビー』は舞台に照明がついた途端、人々が動き出す前の一瞬で雰囲気が分かるのだ。ここは酒場なのだと分かる。役者一人一人の佇まいや醸し出すものが合わさっているのだろう。宝塚で「芝居力」という言葉が使われるが、まさに芝居力としか言いようがない。

 正直何年か宝塚を見ているが初めての体験で驚きを隠せない。あれはすごい。すごい……。

 

・ギャツビー

 事故の被害者の夫に銃口を向けられて「車を運転していたのはあんたか?」と尋ねられて、自分だと答えられた時の安堵の表情。この表情がなんて心を揺さぶることか……。銃を向けられているのが自分でよかった、デイジーを守ることができたという安堵が伝わってきて涙腺がえらいこっちゃ。でも涙で見逃すわけにはいかない。

 ギャツビーは文字通り愛に命を捧げた人だった。

 トムは一生ギャツビーに敵わないんだろうなぁ。いや、絶対敵わないよ。

 それから、事故を起こして動揺しているデイジーに、自分が罪を被るから何も知らないことにして家に帰るように伝えるセリフがあるんです。

「ここからは一人で行けるね」

 こんなに重たく深いセリフだなんて知らなかった。

 「一人で」という言葉はちゃんと「僕なしで」の意味で伝わっていて、どこか少女らしい心の抜けていないデイジー大人になるんだよと諭すようにも感じられて心の芯をギュッと絞られた。運命とか世界とか大仰な言葉を使わなくても強く重たく響くんだ……。

 月城かなとさんのお芝居は心の深いところに刺さる。心の芯を直接揺さぶられる。改めて実感した。そして受け取るものの壮大さに放心した。


・デイジー

 瀬奈じゅんさん主演の『グレート・ギャツビー』を観たことがある。

 当時は、ギャツビーの葬儀に出ないつもりで夫婦でヨーロッパ旅行に行き、結局現れたかと思えばデイジーが無表情でギャツビーのお墓に軽く花を投げて去ってゆくのがまるでわからなかった。

 薄情で冷たくて、感情を隠さない(どちらかというとヒステリックになったりする)彼女の感情が急に読めなくなったのを覚えている。

 今回は、デイジーの無表情な顔をよくよく見た。力を入れて感情を抑え無理に無表情を作るのではなく顔の筋肉を殺していたように見えた。

 ギャツビーの死という形でギャツビーの愛を受け取ったから、彼女の精神を大人にさせたのかなと思った。ギャツビーの恋人ではなく、母親として大人としてあの場に立っていたから泣き出すこともしなかった。それが彼女の無表情の理由なのかと、少しだけわかったような気がした。

 ギャツビーの愛を受け取った、とわかったのは、ギャツビーのお墓に投げた花が一輪の白い薔薇だったからだ。

 白い薔薇は、ギャツビーが軍にいた頃二人が恋仲だった時の描写に出てきた。

 ギャツビーが白い薔薇の花束をデイジーに贈る。その返事としてその花束から一輪、ギャツビーに贈るのだった。

 ギャツビーからの愛(代わりに罪を被ること)に対して、受け取った(一輪の白い薔薇)という返事だった。

 

 

 素晴らしいものを観た。観終わって何時間たってもまだ自分の中が『グレート・ギャツビー』で満ちている。余韻にはまだたどり着けない。観たという視覚的体験ではない。心も含め全身で受け止めたという凄まじい出来事(うまく言えない)だった。

 

 ニック役である風間柚乃さんが、事故の真相を知った後ギャツビーへの「君はあいつらよりよっぽど価値のある人間だよ」という台詞に苦戦していた時、月城かなとさんから「大きな気持ちこそ小さな穴を通して相手に伝えなきゃいけないんだよ」と言われたと知り、たまらず天を仰いだ。

 

https://kageki.hankyu.co.jp/revue/2022/greatgatsby/index.html

『水やりはいつも深夜だけど』 窪美澄

 どこかの家族の物語が5つ。

 少し見栄を張ったブログを更新している母親。

 妻の産後うつから少しぎくしゃくしているうえに義理の両親との将来的な同居が浮上していっぱいいっぱいになってしまう父親。

 妹が知的障害があったため自分の子供の少しゆっくりなところなどが不安で仕方ない母親。

 妻が子供のことを考える時間が増えるにつれ、自分への興味が減っていることを強く感じ若い女に揺れる男。

 父親の再婚でできた義理の母親と連れ子の2人との生活を始めた高校生。

 

 それぞれの家族がみな、どこかにじくじくとしたものを抱えていた。抱えたままでも”家族”は続いてゆく(表現として、表面的には「続いている」が実際は「破綻していないだけ」というのもある。この本では実際も「続いている」)。綻びの兆しの見える家族もある。

 しかし、いずれの家族もどこかで決壊する。その後でもう一度顔をつき合わせる。抱えていたじくじくしたものを晒すのだ。晒すことでようやく相手を知ることができる。分かり合える。

 そうすることで、あかるく、やわらかく、やさしく、少しの気持ちを取り戻したりして話は締めくくられた。

 

 一つ一つの家族が抱えているものは非常に現実味があり、ポロリと人にこぼせない重さがある。その重さが心の深いところまで沈んで届いてくれる。

 まるっきり問題が解決するわけではない。しかし、独りで抱えなくていい。力を抜いていい。分かり合える(分かろうとしてくれる)人がいる。それだけでいい。それが家族なんだと思わせてくれた。

 

 一つだけ。帯の言葉に反論しておきたい。

思い通りにならない毎日、言葉にできない本音。
それでも、一緒に歩んでいく――だって、家族だから。

 自分は自身の経験から「家族だから」という言葉を嫌う。その後に隠されている言葉はたいてい「仕方ない」だから。免罪符や諦めの理由にされるのが大嫌いだ。

 

 この本では「家族だから」一緒に歩んでいくのではない。

 もう一度向き合うから一緒に歩んでいけるのだ。

 

 その向き合うまっすぐな視線を「家族だから」という形式的な言葉で美化したり片づけたりするのはこの本の登場人物に失礼だと思ったことをここに残しておきたい。

 

 

 

『語らいサンドイッチ』谷瑞恵

 姉妹で営む手作りサンドイッチ専門店を舞台にした、1つのサンドイッチとそれにまつわるお話。

 誰かの思い出の中にある食材を使ったサンドイッチや10年前の忘れられないサンドイッチ。メニューにはなくとも、サンドイッチのことならば!と熱心な姉・笹子さんは妹・蕗子さんや近隣の人の力を借りて情報を集め”これだ”というサンドイッチを作り上げる。

 そのサンドイッチは誰かの記憶と少しだけ繋がっていて、今食べている人だけでなく当時のチリっとした気持ちも癒やしてくれるお話だった。

 笹ちゃんは料理がただの食べ物じゃないことを知っている。人に寄り添って、楽しませたり勇気づけたり、そっと心を動かすものだと知っていて、丁寧にサンドイッチを作っている。

 作中には他にも、何を作ればいいかはお客さんが教えてくれるとあった。丁寧にサンドイッチを作ることは丁寧に人と向き合うことから来ていると感じた。その丁寧さが癒してくれるのだろう。

 

 内容とは別に、ミモザの花を「細かい炒り卵」と例えていたところが非常に好きだ。

 生活に密着した表現が、素朴でやさしい手触りがあって愛らしかった。

 

 

 最後に、読後にサンドイッチシリーズの2作目と知った自分へ。

 めぐり逢いサンドイッチ(1作目)、ふれあいサンドイッチ(3作目)を読もうね!