大丈夫の魔法と呪い

大丈夫という言葉は他人に使えば魔法だが、自分に使えば呪いだ。

 

大丈夫だよ=もし大丈夫じゃなくても私が大丈夫をあげる

という意味で使ってるので、自分に使うといわゆる循環参照が発生してしまう。


「大丈夫」はアイライクユーないしアイラブユーに近い。

これは以前どこかで見かけたツイートだったと思う。その通りだ。


他人に対する「大丈夫」は少しでも不安が取り除かれますように、あなたのことを信じています、そんな願いや祈りを込めて使う。「大丈夫」という言霊を贈る。今が大丈夫でなくてもこれから大丈夫になるよ、という。

自分に対する「大丈夫」は自分の持っていない「大丈夫」をひたすら自分に渡し続けている。持っていないことに気が付いているのにひたすら「大丈夫」と自分に言い聞かせて気が狂いそうになる。効かないとわかっている注射をずっと打ち続けているような気分だ。

 

決して自分に対して使ってはいけない。

 

追記

大丈夫は抱擁と言ってもいいかもしれない。

他人を安心させる、包み込むための魔法。

自分を締め付ける呪い。

 

「大丈夫」で肯定したいのだ、あなたを。

 

私は泣いていない

目からボロボロと液体が溢れそうになる。

溢れる前に急いで拭い取る。

呼吸が苦しい。

ヒッ・・・ヒッ・・・と繰り返す。

時折平気を装うために深呼吸する。

液体を拭き取る。

目の奥が痛い。

扁桃腺の辺りがキュッとしまっている。

苦しい。

液体を拭き取る。

堪えようと食いしばったはずの歯がガチガチ言っている。

口を閉じようとするほどにガチガチうるさい。

歯を食いしばるための筋肉が悲鳴を上げている。

食いしばれずにただ口角を下げている。

液体が鼻水に変わり、鼻が詰まる。

震える呼吸で無理矢理息を吐く。

震える深呼吸。

決して声を出してはいけない。

私は泣いていないのだから。

視界がぼやけてもすぐに拭い取る。

私は泣いていないから。

泣いたら怒られる。

震える呼吸。

震える呼吸。

止まらない鼻水。

力みすぎて頭が痛い。

大丈夫、泣いていない。

泣いていない。

泣いていない。

震える呼吸。

ガチガチ鳴りやまない歯。

頭が痛い。

ぼやける視界。

びしょびしょの袖口。

平然を取り繕えていない呼吸。

何とか閉じたのに震える唇。

その奥でうるさい歯。

ごめんなさい。ごめんなさい。

謝ったところで何が変わる。

泣いて何か変わったか、そう問われた幼少期。

お前の中の塩分濃度くらいだと。

頭がガンガンする。

泣いていない。私は泣いていない。

頭の奥が痛い。

泣いていない。

鼻水がいっぱいになる。

頭が痛い。

泣いていないです。そう答えなくてはいけない。

震えを止めろ。

ハッ…ハッ……ハッ……

決して声を上げてはいけない。

私は泣いていない。

泣いても何も変わらないのだから。

芝居のブロックと水

宝塚を見るようになって深くのめりこむのが楽しいと思ったのが、演者の方の芝居に対しての意気込みや役作りの課題、どう演じるかを聞く機会があることです。
宝塚専門チャンネルで放送されている now on stage という番組で公演の主要メンバーの方々の話が聞けます。
 
作品や番組を通して最近思ったのが、
芝居において技術はブロック感情は水で、
役作りは「役」という自作の型をブロックと水で満たす作業なのではないかなということです。
ブロックは大小、形も様々で穴があったり歪だったりする。ブロックで役は揺るぎない確固たるものになる。ブロックだけでは埋められない隙間に水が入って全体が滑らかなものに仕上がる。そんなイメージです。
 
そこで、花組のトップスター・次期トップスター(使ってみたかったワード)はどんな芝居なのか個人的主観で考察してみました。
 
明日海りおさんはブロックがとっても細かく砂サイズで、少しずつ形が違う。ブロックとブロックの隙間まで計算して緻密に積み上げ、どんな砂像も作れるようなベストな硬さに必要な水量を入れるイメージ。
決して堅くなく、もろくなく、感嘆するほどの絶妙な硬さ。水の割合や部分的に水の多い箇所の調整もできる。
 
一方で、柚香光さんは粘性のある水でいっぱいなイメージ。
ブロックが溶け込んでいて水はスライムに近い状態。水分が多いから表面は抜群になめらかで固体なのか液体なのかわからない。ただのブロックや水では行き届かないところまで水が広がる。すごく説明が難しい。
 
 
心に染み込むもの、役から滲み出るものは水なんだろうなと思います。
技術じゃ説明できない部分はそこなんだろうなぁ。
 
 

ディベートで勝つには

ASKfmの質問を通して、いかに自分の要求を相手に飲ませるかを考えた。

 

結論からして、自分の要求を相手に飲ませてはいけない。

 

これはディベートでも同じことが言える。

自分と相手の意見を戦わせて自分の意見を押し通そうとする人が多い。いかに自分の意見が素晴らしく根拠がはっきりしているか、どうやって相手の意見の重箱の隅をつつき黙らせるか、歩み寄りの余地なくただ勝ち負けに固執している。

 

ディベートとは、自分と相手の主張から互いに歩み寄り妥協点を見つけていくことである。

以下にディベートに活かせるであろう手順を載せる。

 

今回のASKfmの質問

人の趣味を否定するのは良くないと思いますが、四六時中テレビを点けっぱなしにしている両親がどうしても理解出来ません。軽くストレスが溜まるのですがやはり我慢したほうがいいですか? 

 

以下、今の自分の回答

小さなストレスでも溜まっていくのは疲れますよね。
あなたが一方的に我慢するのはよくないと思います。小さなストレスが積もっていくのは我慢できるけど放っておくと大きなストレスになってしまいます。
いきなり脱線するのですが、「○○な”のに”」「○○した”のに”」と“のに”という言葉は大きなストレスになっている警告灯なので、自分の中でこの言葉が生まれてきたら自分に優しくしてあげてほしいです。
話を戻しますね。
相手に気持ちを伝えて状況を改善する方向性でつらつらと書いていきます。
一番重要なことは「相手に行動を要求しないこと」です。
相手に行動を要求する=命令する、です。
それでは今度は相手が我慢する番になり、何とも居心地が悪いじゃありませんか(笑)
なので、どちらか一方の要求を通すのではなく、互いの意見を柔らかくして、妥協点を探しましょう。
まず、テレビをつけっぱなしにすることの何が嫌なのか、もう少し掘り下げてみましょう。うるさい、気が散る、電気代が気になる、いろいろあると思います。
あなたが嫌なのは意味もなく”テレビがつけっぱなし”が嫌なのではなくて”うるさい””気が散る”ことが嫌なんです。自分の主張の核はここです。他のことは実は譲れることなのです。
次に相手の意見を聞かねばなりません。正々堂々と!
なんとなく、静かなのが苦手だから、消し忘れている、テレビ番組で時間を把握している、見たいテレビを最初から見るため、意外な理由があるかもしれません。
そうしたら相手の主張の核を把握しましょう。
そして、主張の核以外は互いに譲り合うことで合意しましょう。
そうすれば、夕食前だけはつけっぱなしにしてもかまわない、●時になったら教える、●曜日はつけっぱなしでもスルーする、離れるなら絶対に消す、様々な提案ができると思います。互いがちょっとずつ譲り合うとどちらも納得するものです。
もちろん習慣化していないうちは忘れてしまうので根気よく伝えなければいけませんし、そもそも両親相手に正々堂々と話し合いの場を持つのも難しいし、はっきり言って理想です。
それでも「人の趣味を否定するのは良くないと思いますが」とご両親のことを考えられるあなたなら、互いに気持ちよく過ごすためにできるのではないかと…これは少々自分からの期待です(笑)
少しでも力になれたら嬉しいです。
互いが納得できるように祈ってます。

 

 

第2志望校へ進学してこのまま頑張ろうと決めた君へ。

最初は編入することも考えていたね。その時はまた相談します、と連絡をくれたことをずっと心に留めていたんだ。
そして7月。元気にやってます、という連絡とともに編入なしで行こうと思いますと伝えてくれたね。

 

いいと思うよ。
まぁ、「編入ありで行こうと思う」と言われても同じことを言うんだけどね(笑)


大事なのは、君が自分の意志で選択することだよ。
どうしよう…と迷っている間は100%の力を出せないから一回決めちゃう!

やっぱ変えようと思ったらそっちに100%の力を出す!

100%の力でやらないと見えないものはいっぱいあるからね。やっぱり違った!と思えるのも100%の力を出さないと見えないものだったりする。
いつ、その決断をひっくり返してもいいんだ。
だって、決断をひっくり返すということは、ひっくり返すだけの理由や目的を新しく手に入れたからなんだろう?いいじゃないか。素敵なことだ!

ひっくり返したらその方向にまた全力で進むといいよ。

 

この先、呼吸ができなくなるくらいおなかを抱えて笑うことも、ご飯を食べる気も何にもする気になれないくらいただただ涙を流すような苦しいことも、たくさんのことがあるよ。
そのたびに『選択』を迫られることがある。
大事なのは『選択』すること。
そうすれば100%の力を出せる。
そうすれば周りも力を貸せる。
そうすれば見える景色は変わる。

 

君の進む先が楽しみだなぁ。
いつでもここから応援してるよ。

宝塚ファンの在り方

宝塚にハマって用語、サイクル、仕組みなど、物事がそれなりにわかるようになった。

その中でファンについて思うことをまとめておく。


★宝塚歴が長い人
歴が長い事は素敵だなと思う。

宝塚と一緒に歩んできた長さだし、知識・引き出しも多いし、なによりこんな素敵な宝塚をたくさん見てるんだよ?純粋に羨ましい。

そして、ファンに偉い・偉くないはないよと言ってくださる人、とても尊敬する。

 


★品定めしない姿勢
他ジャンルで長いから、昔と比較したくなる気持ちはわかる。

そして品定めして文句ばっかり言ってるのはもはやファンの姿勢じゃないこともわかる。

「当時が好き」という強い気持ちから「今はあんまり…」という気持ちに変質してしまう。そして何より楽しくない!

今を、今を、今を、今を、今を、生ーきーよーおー!

 

また、自分の好きではないタカラジェンヌの悪口をツイートする人がいる。

自分が好きでなくても誰かが好きなものについて悪口を言うのは、感心しない。

自分の好きなものの悪口を言われる場合を考えれば小学生でもすぐわかる。

これについては首肯するばかりのツイートがあったので引用。

 


★嫌なこと
宝塚の何が嫌ってお花畑は嫌いだと言ってファンを攻撃する輩です。

「気に入らないから言っただけ。言うのは自由じゃん」「こんな何もわからないやつに応援される○○さんかわいそう」それはただのいじめです。人として間違ってる。

ファン見てる暇あったら、タカラジェンヌ見ろよ!出版物見ろよ!

愛を深めろよ!

もし、こちらが迷惑をかけていたら教えてほしい。多くの人が心地よく楽しめるものであってほしいからそれは本当に直したい。初心者ほど気づかないことは多い。そういう時歴の長い人の存在は本当にありがたい。

そうじゃないなら他人の楽しみ方に口出すな!こっちも出さない!住み分けだ!

具体的に言うと、引用RTで通知欄に出てくるな!

 


★これから
前述のような自分がされて嫌だったこと、自分はしないように気を付けような。我々で少しずつ良くしていこうな。

 

見たかった公演を手を差しのべてくれた方のおかげで観劇できることになった。知らなかったことを教えてくれた。そういう自分がされて嬉しかったこと、しっかり引き継いでいこうな。

 

観劇するしない、頻度、ファンクラブ、触れるコンテンツ、お茶会の参加。各人の楽しみ方がある。尊重していこうな。

働かされない生き方

ワークライフバランス」という言葉ってむかつきません?

ライフの中の一部であるはずのワークが、どうしてライフと天秤に乗ってバランスとろうとしてるんだよって。

 

そりゃ、24時間のうち約8時間、一日の1/3を奪われる(さらに一日の1/3は睡眠食事などに使われるので自由に使える時間のうち1/2を占めていることになる)のだから、人生に占める割合は大きいが。だからって、どうなんだよと。

 

そんなもやもやを抱えているうちに、仕事を副業にするという考え方に出会った。

要するに、趣味が本業で、気持ち良く本業をするために副業の社会生活をきちんとやっていくという考え方だ。

 

この考え方がすんなりと納得できたのはそれまでのいくつかの出来事があった。

大きな出来事の二つを紹介する。

 

一つは、ライブ大好き社畜先輩の存在である。

その先輩は名前の通りライブが大好きで休みがあればライブに行く、仕事終わりにライブに行く、2か月に1回は遠征をする、ライブツアー渋谷・長野に2連日参戦、そして日付が変わるころに帰宅するタイプの社畜

そんな社畜なのに、生き生きとしている。

先輩いわく、推しているバンドに貢ぐためにせっせと働いているのだそうだ。

お金を使う目的を持つと働くことに強くなれるらしい。そう学んだ。

 

二つ目に、宝塚ファンの人の就活や仕事についての考え方である。

宝塚ファンのための就活ブログ(引用したいのだが、URLを忘れてしまった)を読んで、けっこうなカルチャーショックを受けた。

遠征のために土日は休めるところ、など宝塚を楽しむ”ための”就活・仕事選びの方法が書かれていた。優先順位は宝塚>仕事なのだ。

さらに「全国ツアーの合間に仕事に行ってるのか、仕事の合間に全国ツアーに行っているのかわからない」といった内容のツイートを見かけて、これまたカルチャーショック。以前の自分ならば例えがうまいななどと感心していたが、どうやら例えではなく、本心だとわかってきたのだ。ここでも優先順位は宝塚>仕事なのだ。

 

この二つを通して、趣味>仕事という優先順位を確立している人は自分の軸があるので強いという結論に至った。残業だって遠征費を稼いでいると思えば余裕(byライブ大好き社畜先輩)なのだ。

 

自分を振り返った時に、仕事に追われ、ようやくたどり着いた休日は疲れて動けず、お金は貯まるが生活費を取り出したら終わり。そんな生き方をしていたことがあった。

趣味を持つというのは本当に大事だな、と苦い思いとともに。